なにも見えないのに夜の海はふしぎとこわくなくて落ち着く。月明かりに照らされたうつくしい海の写真や絵画と違って、月が雲に覆われている今日はなにも見えない。だから良いのかもしれないなんてバカみたいなことを考えて、コンビニの帰り道から海をぼんやりと眺める。街灯や店の明かりのおかげでうっすらと見える砂浜には人が疎らにいて、こんな時間だけど犬の散歩をしている人や、手をつないだ恋人同士、鮮明には見えないけど色々な人たちの足あとがついてる。砂浜におりるほど海に近づこうとは思ってなくて、車道を行き交う車のテールライトを浴びながら、コンクリートの道をただ歩く。

「女のくせにこんな時間にひとりで歩くなんて不用心じゃの」
「あれ、仁王くん?」

 国道沿いのレンタルビデオショップから学校で見る制服とは違う、ラフな格好で現れたのは仁王くんだった。制服でもジャージでもない姿を見たのは初めてかもしれない。けど、猫背なのは学校と変わらない。普段学校以外で会わないクラスメイトとこんな何もない道で会ってしまうのは新鮮だけど、何を話せば良いのかわからなくてすこしだけ居心地が悪い。

「何しとんの?」
「コンビニで買い物。仁王くんって家この辺なの?」
「あっちの方じゃ」
「あっちってどっち」

 お気に入りのDVDがこの店舗にしかなかったらしく、わざわざ電車に乗ってはるばるやって来たらしい。結局仁王くんの家がどの辺なのかはわからなかったけど、あまり物事に執着しなさそうな仁王くんがどんなDVDを観たかったのか、ちょっとだけ気になった。

「それでどうなんじゃ?」
「どうって何が?」
「…そうやってはぐらかしとるの、本人がいちばんキツいと思うけどの」

 あの日、仁王くんがブン太を安心させると言ったあの日から、約一週間が経った。この一週間、教室で過ごしていた時間は何も変わらない。わたしは相変わらずブン太とたまに登校するし、休み時間なんかはブン太が主軸となって3人で会話をする。今まで通り。ブン太に仁王くんのことを相談したけど、多分どっちも何も話してないからふたりの関係も変わってないように思う。けど、なにかひとつ動いたらきっとすべてが変わる。

「だって、よくわからないから」
「ずるい言葉ぜよ」
「ずるいのは仁王くんだよ。仁王くんが何考えてるのかわからない」
「お前さんのことばっかり考えとる」

 ほら、やっぱり仁王くんはずるい。そうやって、夜に消えてしまいそうな笑顔を一瞬だけ見せるから、まるで時間がとまったみたいな錯覚を覚える。教室では決して見せないいろいろな表情を、もっと見てみたいと思わされてしまう。そっか、やっぱりこれがきっと仁王くんの魅力なんだ。こうして、女の子たちはみんな仁王くんに夢中になってしまうんだ。

「どうして、わたしなの?」
「…言葉で簡単に説明できるほど、単純じゃないぜよ」

 もし、わたしが学校中のだれもが振り向くような美人だったり、みんなから憧れられるスタイルの持ち主だったり全国模試ナンバー1みたいな、なにかひとつでも秀でたものがあるなら仁王くんにきっとここまで猜疑心を抱かない。けど、わたしは本当に何も持っていない普通、いや普通以下の人間かもしれない。友達とかそういうのは別として だれかに特別な感情を持ってもらえるほど大層な人間なんかじゃないから、きっと見えない何かにおびえてる。

「でも、こわいよ」
「こわい?」
「うまく言えないけど、未知の世界に足を踏み込むようでなんかこわい」

 今まで、誰かを好きになったとこがないからそう思うのかもしれない。夢中になれる何かに出会うこともなかった。恋をしている友人たちはみんなしあわせそうだし、部活だったり趣味だったり夢中になれる何かを追いかけてる人だってみんな楽しそう。けど、しあわせだったり楽しいことばかりなわけがない。きっとつらいことだってかなしいことだってたくさんある。そういう負の感情を持ちたくなくて、今まで色々なことを避けてきたのかもしれない。それに、例えば名前で呼び合ったりだとか手をつないだりだとかキスをしたりだとか、そういう恋人同士の日常を経験したことがないから、自分がどんな風になってしまうんだろうかという怯えもある。こんな自分が、甘ったるい声でだれかの名前を呼んだり女の子の顔で相手に微笑みかけるなんて出来る気がしないし、そんな自分の存在を知らないから考えただけで気持ちが悪い。まだちゃんとした恋なんてしたことがないくせに、わたしは恋をすることに躊躇いを持っている。

「俺がいっしょじゃ」

 それが最大の問題だと軽口をたたくことも出来ないくらい、わたしは戸惑ってしまって口を噤んでしまった。そもそもわたしが仁王くんを好きかどうかと聞かれても曖昧な答えしか返せない。もちろん嫌いじゃない。けど、好きかと問われるとそれも些か疑問が残る。それ以前に、恋愛における「好き」という感情は何なのかと哲学的に考えてしまいそうになる。なんとなくでも「好きだなあ」と思えたら良いけど、何を想ったら好きということになるのか、そもそもそれを知らないからきっとうまく答えられない。

「手」
「え、手?」

 好きになってから恋人同士になるのだけが恋愛じゃないと聞いたことがある。よく、告白されたからなんとなく付き合ったっていう話も聞くけど、何も知らないわたしはそれがぜんぜん分からなくて、どうして好きじゃないのに付き合えるんだろうって疑問をいつも持ってた。けど、今ならなんとなくわかる。仁王くんのことが好きかどうかはまだ分からないし心臓の音はもっとうるさくなったけど、今つながれてるこの手はなにも嫌がってないし、むしろこの道がもうすこし続いてほしいなんてことまで思ってる。いつか仁王くんにと名前を呼ばれて、当たり前のように手をつなぐ日が来るのだろうか。今はまだぎこちなくつながってるこの手の感覚は、きらいじゃない。

「手ちっさいの」
「仁王くんの手って、」
「何じゃ?」
「…なんでもない」
「あいつとは手つないだことないんか?」
「あいつって、ブン太?ちいさい時にあるかな」
「じゃあ」

 つながれていた手の力が急に強くなって、引き寄せられるみたいに仁王くんの胸板に思いっきり額をぶつけた。ごめんと謝るべきなのか、そもそも引っ張った仁王くんが悪いから文句を言うべきなのかわからなくて、とりあえず「いてて」と色気のない声と空いてる片手で額をおさえながら、瞬間に生じた衝撃を宥めることにした。けれど、うばわれると言うにはあまりにやさしく、額をおさえていた手まで仁王くんに攫われてわたしはもう何も出来なくなる。波の音も車の音も、何も聞こえない。まるで、世界にはふたりしかいないみたいな魔法をかけられる。

「あいつとした事ないこと、しようかの?」

 街に存在する数多のスポットライトから隠れて、夜の海にまぎれるように、だれにも見つからない、うまれて初めてのキスをした。