今まで、言えなかった言葉なんて山ほどある。喉まで出かかった言葉を噛んで粉々にして飲み込んできた。それを言ってしまったら、自分が弱いと思われてしまうから。自分が弱いと、思ってしまうから。でも、ふと弱いことがすべて悪いことなのだろうかと思った。それに気付いたのは自分を誤魔化すようになった高校生の頃から、もう何年も経ったあとだった。けど、それまでの年月が無駄だったなんて思わないのは、きっと彼のおかげなのだろう。気づいたら夜になっていた。
「え…?」
「鍵、届けに来たの」
インターホンを鳴らすと出てきたのは完全にオフな姿の黄瀬くんだった。忙しい彼のことだ。今、彼が家にいる保証なんてない。それでも足がつい向かっていた。彼が家にいたということに安堵を覚えつつも、大事なのはこれから。
私が鍵を見せると彼は少し驚いていた。どうやら私が使っていた合鍵を黄瀬くんが落としたのは偶然だったようだ。その偶然が必然に。その必然が運命になるのを、私は初めて知った。
「どうも、っス」
「黄瀬くん」
それ以上交わされる言葉なんて無いと、思ったらしい黄瀬くんは私と目を合わせてくれなかった。けど、扉を閉めようとはしない。私を拒もうとはしなかった。だから、私も拒むのはもう、やめる。
「す…」
「?」
「す、すすす」
「?」
今まで言ったことがない言葉というのはこんなにも通りづらい道なのだろうか。今までたくさんの言葉を噛み砕いて来たから、その残骸が道を阻んでいるかのよう。なかなか喉から外へは出てくれない。でも、ここで止まってしまったら、また飲み込んでしまったら、今までと何も変わらない。だから、今度こそ諦めない。素直になるということに。
「好き」
出た、二文字。このたった二文字を言うだけに、一体どのくらいの年月を要しただろうか。
「え?」
「黄瀬くんのこと、好き」
例えばケーキが好きだとか、音楽や映画、本が好き。そういった類の「好き」は何度だって言葉にしたし、引っかかったことなんてない。けど、男の人に「好き」と言ったことは一度もなかった。好きじゃなかったのか、恥ずかしかったのか、言う機会がなかっただけなのか。それは分からないけど、愛を込めての「好き」は未知の世界だった。「好き」って言葉が、日常では当たり前に使うこの言葉が愛を覚えただけでこんなにも切なくて苦しくて。でも幸せで清々しいものだなんて、知らなかった。
「かもしれない」
それでも、初めて言う言葉に恥じらいを持ってしまう自分がいた。彼の目を見れなくて、視線を外しているから彼が今どんな表情をしているのか分からない。もしかしたら、今更何を言っているんだと思われてるかもしれない。でも、それでも良い。怯えていたら、傷つくことを恐れていたら、私は前に進めない。傷ついたって、泣けば良い。今思えば、私は傷つくのが怖かっただけなのかもしれない。だから必死で自分を誤魔化して深入りしないように境界線を引いていた。もし何かあっても、ダメージが少ないように。でも、自分で引いた無意味な境界線は、自分で消すから。
「鍵」
「え、ああ」
「今日はこれ届けに来ただけだから」
「え、ちょ、意味わかんないんスけど…って、え?これ…」
私は心のどこかで強いって思われたかったわけではなかったのだと思う。何より、私を理解してくれることを求めていたのだと思う。でも、望んでいるくせに実際事実を突きつけられて否定してしまうなんて、まだまだ子供だなと思った。けど、黄瀬くんは私を理解して、私の弱さに気付いて、私を否定しなかった。その時初めて、どこかで何かから解放されたような気がした。だから、今度は私が黄瀬くんのために何かしてあげたいと思った。彼は私より先に自分の弱さに気付いて、認めて、強くなった。私は要らないのかもしれない。けど、もしこの先彼が何かに挫けそうになった時、支えてあげたいと思った。傍にいたいと思った。一緒に幸せになりたいと初めて思った。それに気づいたのは、あの言葉。
「行って来ます」
彼の手に鍵を渡して踵を返す。私には行かなければいけないところがあるから。
△▼△
「は突然来るのが好きなようだね」
「ごめん」
オートロックが開いてまたもや長い時間をエレベータで駆け上る。相変わらず景色がキレイだな、なんて思いながら彼の部屋のインターホンを鳴らした。一度逃げ込んだ場所に再び飛び込むというのは意外にも勇気がいることだと知った。けど、今日来たのは逃げるためじゃない、逃げないためだ。
扉が開くと彼の真っ直ぐな双眸と出会う。きっと彼の目は、私をすべて捉えているのだろう。ここまで来たは良いけど、何を言おうか考えてなかった。いや、考えてはいたけど、本人を目の前にするとなかなか上手く言えない。
「お礼を、良いに来たの」
「…皮肉だな」
自身を嘲笑うかのような彼の笑みと声は、少しだけ寂しかった。たった一言、この一言で私が彼に幸せにしてもらう道を選ばなかったことに、気づいたのだろう。
「それでも、ありがとうを言いたかったの」
「後悔、しないのか」
「分からない」
多分、黄瀬くんだけだったら私はあらゆることに何も気づけなかったと思う。赤司くんがいたからこそ、気づけたことがあると思う。何よりあの一言。彼が私を幸せにする、と言ったあと一言が私を目覚めさせた。幸せにしてもらいたいわけじゃない。私が幸せにしたいと、一緒に幸せになりたいと思う人間は誰なのかということ。それは、赤司くんがが先程言ったように皮肉めいたことになってしまうかもしれない。でも、お互い過ごした時間がお互いにとって無駄だったなんて、私は思わない。
「でも、自分の気持ちにもう嘘はつかない。それに傷ついても、もう泣けるから」
赤司くんは静かに「そうか」とひとつ言葉を落とした。今まで、私が作る沈黙は何度もあった。けど、彼が作る沈黙は初めてだ。きっと、まだ何か言いたいことがあるのだろう。だったら私はそれを待つ。彼の言葉を最後まで聞きたいから。
「幸せに、」
珍しく私と視線を合わせてくれない。これはおそらく彼のひとりごと。これから紡がれる言葉はきっと、彼のひとりごとなのだろう。彼が私に見せる優しさ。ひとりごとだから聞かなくて良い。ひとりごとだから気にする必要なんてない、何も思わなくて良い。受け止めなくて良い。それが彼の想いたと気づけないほど、愚かじゃないから。
「したかった」
言葉は地面に吸い寄せられた。彼が言葉にした想いは一瞬だか姿を見せたけど、今はもうない。その証拠に今度はいつも通り私の目を見てくれた。見透かされそうでこわかった彼の双眸も、こわくない。
「礼を言うのはオレの方だ」
「え?」
そして再び止まる時間。けど、居心地の悪くない沈黙だってある。赤司くんから紡がれる言葉は私の宝箱にちゃんと閉まっておく。
「を好きでいた時間、オレは幸せだった」
視界が少しだけ歪むように霞んだ。伝えたいことはたくさんあるはずなのに、ありきたりな言葉しか出てこないのが悔しい。だから、一番伝えたい感謝の「ありがとう」を込めて今出来る精一杯の笑顔を赤司くんに向けてその場をあとにした。涙は落とさない。でも、私にはもう泣ける場所が、泣いて良い場所が出来たから。
△▼△
帰り道、いつもと違う道を通ってみた。スタートもゴールも同じなのに、気づかなかったことがたくさんある。例えば、こんなところに公園なんてあったんだとか、こんなところにキレイな花壇があったんだとか、そういう些細なこと。気づかなくても良いようなこと。けど、知ってるのと知らないのでは違う。家に早く帰りたいと思うのは初めてかもしれない。帰るのが楽しみなのは初めてかもしれない。鍵を使って開けた扉の先は、もう暗くない。
「おかえり、」
「ただいま、涼太くん」
自分の家なのに「ただいま」を言うことにむず痒さを覚えた。でも、少し嬉しい。今までからっぽだった空間にようやく少しずつたくさんの感情が埋まっていくのだ。テーブルには、私が彼に渡した自分の部屋の合鍵と、私が自分で持っている鍵が寄り添うように並んいる。同じ扉を一緒に開くために。
もう夜じゃない。ふたりで迎える朝焼けも、眩しくない。
