時計の針はカチカチと動いているのに、時が止まってしまったような気がした。黄瀬くんが私の横を通り過ぎた時に生まれた僅かな風だったり、黄瀬くんの香水の残り香がまだ残ってるような気がして。立ち尽くしたまま動くことなんて、出来ない。前に進むことも、振り向いて駆け出すことも、何も出来ない。
「追いかけなくて、良いのか」
「…どうして?どうして私が黄瀬くんを追いかけるの?」
黄瀬くんを追いかけてどうしろと言うのだろうか。自分がどうしたいのかも分かっていないのだから、追いかけて呼び止めたところで紡がれる言葉なんて、ひとつも持ってない。追いかける理由なんて、私と黄瀬くんの間には存在しない。
ふとドアの方に視線を移すと、床に鍵が置かれていた。私の部屋の鍵ではないはず。では彼が落として行った鍵だろう。…偶然か必然かは分からない。けど、黄瀬くんを追いかける理由が出来たと言えば出来た。この落とし物を彼に届けるという名目で。それなら早く行かないと彼に追いつけなくなってしまう。でも、身体がそれを躊躇っている。
「」
「あ、ごめん。…散らかってるけど上がっていく?」
「…が構わないならお言葉に甘えるが」
「ち、ちょっと待ってて!すぐに片付けてくるから」
最低だ。私は今、赤司くんを利用しようとした。いや、している。赤司くんと時間を共有することで、先程までの出来事や黄瀬くんに抱いた戸惑いの感情を全てかき消そうとしている。上書きしようとしているのだ。自分の中の卑怯さが、弱さがまたしても浮き彫りになってしまったかのような気がした。
傍に落ちていた鍵を拾い上げて部屋の中へ入る。ドアを閉めてうっかりため息が漏れてしまった。そのまま座り込みそうになるのを何とか堪え、先程拾った鍵を見つめる。彼はこれがないと家に帰れないんじゃないかと思っていたが、違う。これは、私がしばらく使っていた彼の部屋の合い鍵だ。
部屋をさっと軽く片付けて赤司くんを部屋の中へ招いた。彼は何も言わない。いつも通りの表情、いつも通りの声。でも、きっと彼のことだから私が今何を考えて何を思っているかなんて、お見通しなのだろう。きっと、私より分かっている。そのことがより不安に感じて、自分の部屋なのに居辛くなって、キッチンへ逃げ込む。けど、逃げても解決するような問題ではなくコーヒーをいれようと持ったカップが僅かに震える。私の動揺や迷いを表しているようで、それを自分の視界に入れると余計震える気がした。突如響く、何かが割れる音だって、鮮明に聞こえてしまう。自分が生み出した音なのに、こわくなってしまった。床に散らばったその破片で自分自身を傷つけているのか、それとも他の人間を傷つけているのか。両方傷つけているのか。
「!?」
「あ、ごめん…痛っ」
せめて割れた破片を拾ってあげなきゃ可哀相だと思って傷つくことを恐れず何も考えずに触れた。けど、やっぱりダメだった。滲み出た赤い血が流れるのをぼんやり眺めていると、強く掴まれた手首が驚いて震えはもう止まっていた。それでも指から滴る血は止まらない。赤が、離れない。
「らしくないな」
「え?」
「素手で触れたら危ないだろう」
「ごめん、なさい」
「救急箱は?ここはオレが後でやるからとりあえずこっちにおいで」
彼の高級そうなハンカチを私の血で汚してしまったことに罪悪感を覚えた。何故こんな私に優しくしてくれるのか。優しくしてもらう価値もないのに。罪悪感に罪悪感を重ねてこの悪循環から抜け出すことなんて出来ない。生憎、救急箱なんて立派なものはこの部屋に存在しておらず、財布の中に絆創膏が入っているのを思い出して取り出した。彼は私をソファーに座らせると自身のハンカチで止血をしてくれる。絆創膏を貼ってくれた彼の指は、私の傷ついた指と違ってとてもキレイだった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
短いこの会話の中に、どれだけ多くの意味が含まれていたか分からないほど子供じゃない。彼は立ち上がると本当にキッチンで割れたカップを片付けてくれて、おまけに二人分のコーヒーまでいれてくれた。私の家だというのに、重ね重ね何も出来ない自分を実感させられる。まるで、彼がいないとダメみたいじゃない。
「オレは、」
どうぞ、と彼がコーヒーを差し出してくれたあとはまたしばらく沈黙が続いた。そんな沈黙の空間の中、ようやく響き渡ったのは彼の声だった。凛としたその声音はすべてを落ち着かせることが出来るような気さえする。部屋の中で振動するその音に耳を澄ませて、彼が紡ぐ言葉をひとつひとつ心に落とす。
「が幸せならそれで良い」
幸せ―。何度も考えたことがある。けど、特に恋愛においての幸せなんて意味が分からない。どんなに考えても結局答えなんて見つからなかった。幸せでなくたって、愛に満たされていなくたって、生きていけるから。恋愛における幸せなんて、人それぞれ。じゃあ、私の幸せって何なんだろう?別に今だって不幸なわけじゃない。それは、イコール幸せなの?愛に満たされる幸せなんて、知らないから分からない。
「そう思っていた」
私でもよく耳にするような台詞。「君が幸せなら、それで良い」映画やドラマ、漫画に歌の歌詞でだって聞いたことがある、裏表の言葉。双方幸せになれる言葉でもあれば、幸せになれない言葉でもある。そう思える恋もあれば、そう思えない恋だってある。私はそんなことを考えたこともなかった。だって自分の幸せだって分からないのに、相手の幸せを願うことまで考えられるわけが、ない。そんな立派な・・・あ。
「けれど、そんなこと言えるほどオレだって大人でもないし出来た人間じゃない」
フラッシュバック。せっかく赤司くんの存在で先程の黄瀬くんとの光景を忘れようと思っていたのに、そんな同じような台詞を吐くなんて、絶対ワザとだ。そんなこと、私に思わせるなんて、ワザとだ。
「分かってるだろう?」
でも、今までと本当に少しだけ声のトーンが違う。皮肉にも、赤司くんと濃い時間を過ごしてしまったせいで気づいてしまった。そんな、そんな一生懸命伝えたかった言葉みたいに、しないで。いつだって落ち着いていて、余裕で。彼に出来ないことなんてないとさえ思っていたのに。
この彼の言葉には二つの意味が込められている。静かに自分の呼吸を落ち着けると、傷ついた私の手に彼の手が重ねられた。高校の頃は私より少しだけ大きかったその手は、今ではもう私の手くらい簡単に覆い隠せるほど大きくなったらしい。
「オレがを幸せにするよ」
傷が疼くのはどちらの感情を意味するのだろうか。
「追いかけなくて、良いのか」
「…どうして?どうして私が黄瀬くんを追いかけるの?」
黄瀬くんを追いかけてどうしろと言うのだろうか。自分がどうしたいのかも分かっていないのだから、追いかけて呼び止めたところで紡がれる言葉なんて、ひとつも持ってない。追いかける理由なんて、私と黄瀬くんの間には存在しない。
ふとドアの方に視線を移すと、床に鍵が置かれていた。私の部屋の鍵ではないはず。では彼が落として行った鍵だろう。…偶然か必然かは分からない。けど、黄瀬くんを追いかける理由が出来たと言えば出来た。この落とし物を彼に届けるという名目で。それなら早く行かないと彼に追いつけなくなってしまう。でも、身体がそれを躊躇っている。
「」
「あ、ごめん。…散らかってるけど上がっていく?」
「…が構わないならお言葉に甘えるが」
「ち、ちょっと待ってて!すぐに片付けてくるから」
最低だ。私は今、赤司くんを利用しようとした。いや、している。赤司くんと時間を共有することで、先程までの出来事や黄瀬くんに抱いた戸惑いの感情を全てかき消そうとしている。上書きしようとしているのだ。自分の中の卑怯さが、弱さがまたしても浮き彫りになってしまったかのような気がした。
傍に落ちていた鍵を拾い上げて部屋の中へ入る。ドアを閉めてうっかりため息が漏れてしまった。そのまま座り込みそうになるのを何とか堪え、先程拾った鍵を見つめる。彼はこれがないと家に帰れないんじゃないかと思っていたが、違う。これは、私がしばらく使っていた彼の部屋の合い鍵だ。
部屋をさっと軽く片付けて赤司くんを部屋の中へ招いた。彼は何も言わない。いつも通りの表情、いつも通りの声。でも、きっと彼のことだから私が今何を考えて何を思っているかなんて、お見通しなのだろう。きっと、私より分かっている。そのことがより不安に感じて、自分の部屋なのに居辛くなって、キッチンへ逃げ込む。けど、逃げても解決するような問題ではなくコーヒーをいれようと持ったカップが僅かに震える。私の動揺や迷いを表しているようで、それを自分の視界に入れると余計震える気がした。突如響く、何かが割れる音だって、鮮明に聞こえてしまう。自分が生み出した音なのに、こわくなってしまった。床に散らばったその破片で自分自身を傷つけているのか、それとも他の人間を傷つけているのか。両方傷つけているのか。
「!?」
「あ、ごめん…痛っ」
せめて割れた破片を拾ってあげなきゃ可哀相だと思って傷つくことを恐れず何も考えずに触れた。けど、やっぱりダメだった。滲み出た赤い血が流れるのをぼんやり眺めていると、強く掴まれた手首が驚いて震えはもう止まっていた。それでも指から滴る血は止まらない。赤が、離れない。
「らしくないな」
「え?」
「素手で触れたら危ないだろう」
「ごめん、なさい」
「救急箱は?ここはオレが後でやるからとりあえずこっちにおいで」
彼の高級そうなハンカチを私の血で汚してしまったことに罪悪感を覚えた。何故こんな私に優しくしてくれるのか。優しくしてもらう価値もないのに。罪悪感に罪悪感を重ねてこの悪循環から抜け出すことなんて出来ない。生憎、救急箱なんて立派なものはこの部屋に存在しておらず、財布の中に絆創膏が入っているのを思い出して取り出した。彼は私をソファーに座らせると自身のハンカチで止血をしてくれる。絆創膏を貼ってくれた彼の指は、私の傷ついた指と違ってとてもキレイだった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
短いこの会話の中に、どれだけ多くの意味が含まれていたか分からないほど子供じゃない。彼は立ち上がると本当にキッチンで割れたカップを片付けてくれて、おまけに二人分のコーヒーまでいれてくれた。私の家だというのに、重ね重ね何も出来ない自分を実感させられる。まるで、彼がいないとダメみたいじゃない。
「オレは、」
どうぞ、と彼がコーヒーを差し出してくれたあとはまたしばらく沈黙が続いた。そんな沈黙の空間の中、ようやく響き渡ったのは彼の声だった。凛としたその声音はすべてを落ち着かせることが出来るような気さえする。部屋の中で振動するその音に耳を澄ませて、彼が紡ぐ言葉をひとつひとつ心に落とす。
「が幸せならそれで良い」
幸せ―。何度も考えたことがある。けど、特に恋愛においての幸せなんて意味が分からない。どんなに考えても結局答えなんて見つからなかった。幸せでなくたって、愛に満たされていなくたって、生きていけるから。恋愛における幸せなんて、人それぞれ。じゃあ、私の幸せって何なんだろう?別に今だって不幸なわけじゃない。それは、イコール幸せなの?愛に満たされる幸せなんて、知らないから分からない。
「そう思っていた」
私でもよく耳にするような台詞。「君が幸せなら、それで良い」映画やドラマ、漫画に歌の歌詞でだって聞いたことがある、裏表の言葉。双方幸せになれる言葉でもあれば、幸せになれない言葉でもある。そう思える恋もあれば、そう思えない恋だってある。私はそんなことを考えたこともなかった。だって自分の幸せだって分からないのに、相手の幸せを願うことまで考えられるわけが、ない。そんな立派な・・・あ。
「けれど、そんなこと言えるほどオレだって大人でもないし出来た人間じゃない」
フラッシュバック。せっかく赤司くんの存在で先程の黄瀬くんとの光景を忘れようと思っていたのに、そんな同じような台詞を吐くなんて、絶対ワザとだ。そんなこと、私に思わせるなんて、ワザとだ。
「分かってるだろう?」
でも、今までと本当に少しだけ声のトーンが違う。皮肉にも、赤司くんと濃い時間を過ごしてしまったせいで気づいてしまった。そんな、そんな一生懸命伝えたかった言葉みたいに、しないで。いつだって落ち着いていて、余裕で。彼に出来ないことなんてないとさえ思っていたのに。
この彼の言葉には二つの意味が込められている。静かに自分の呼吸を落ち着けると、傷ついた私の手に彼の手が重ねられた。高校の頃は私より少しだけ大きかったその手は、今ではもう私の手くらい簡単に覆い隠せるほど大きくなったらしい。
「オレがを幸せにするよ」
傷が疼くのはどちらの感情を意味するのだろうか。
