01.Spring
この世のすべてを抱擁してしまうような純白に、凛とした美しさ。そして、触れたら消えてしまいそうな繊細さは、寂寥と同時に恍惚さえもを感じさせる。そう、彼女はまるでー
彼女と初めて会ったのは、澄んだ青空のキャンバスに、春の香りが映えるような清々しい日だった。穏やかな風がやさしく吹いて、乱れてしまった髪の毛をゆっくりと耳にかける彼女の姿は今でも鮮明に記憶している。軽やかに揺れる髪に馴染む細く長い指。そして腕時計を引き立たせる程、透きとおるように美しい白い手首。より露わになった容貌には睫毛に囲まれた双眸にやわらかそうな頬、滑らかな肌に形の良いくちびるが映える。彼女を形容するそれらは決して自分には存在しないものであり、その単純な動作に世界の時間がすべて停止したと思えるほど、目を奪われた。
「あれ、もしかして赤司くん?」
「…?」
そして、奇しくも同じ春と呼べる時期に、偶然だったのか必然だったのかは解らないが、彼女と数年ぶりの再会を果たす。
△▼△
彼女、は大学時代の同級生だった。入学式を終え、講義が始まりつつも新入生たちがこれからの生活に向けて嬉々としている頃。休み時間になると部活やサークルの勧誘が風物詩とでも言うかのようにキャンパス内を賑わせている。ある日、講義が終わりそんな空間から少しでも避難するべく、人気の少ないベンチに座って休憩することにした。そしてふと、視界に映ったのがの後ろ姿だった。少し離れた場所で、彼女は履いていた靴のヒールがマンホールの小さな穴に嵌って抜けなくなっしまったらしく、ひとり必死に格闘していた様子が窺えた。そんな彼女に後ろからゆっくりと近づき、踵の部分を少し上に持ち上げてやると、存外容易くヒールは解放された。
「えっ、あ、スミマセン。ありがとうございます」
「いえ」
夢中になっていた彼女はこちらの存在に全く気づいていなかったせいか、吃驚した表情を一瞬見せたが、すぐにヒールが抜けて安堵したような表情を浮かべた。自由になったヒールは、小さくも軽快な音をたて、アスファルトを踏みしめる。彼女の大きなバッグには大量のチラシのようなものが入っていたようで、礼を言うために頭を下げた彼女のバッグからはそれらが雪崩のように零れ落ちてきた。拾うのを手伝うと、彼女は再び謝りながらほんのり頬を色づかせ「ありがとうございます」と照れたように言った。拾い上げた紙には賑やかなイラストや文字が書かれており、どうやらサークル勧誘のチラシやビラのようらしい。普通の学生はきっと、これらのサークルの中から楽しめそうなものを選択し、子供と大人の境界線を挟んだこれからの4年間を友人たちと笑いや涙あり、充実した日々を過ごすのだろう。
「新入生?」
「はい」
「どこに入るのかは決めたのかい?」
「いえ、私サークルに入るつもりはないんです」
「へえ、珍しいね」
「そうなんですか?バイトが忙しくなると思うんで、多分入れないと思います」
「大学が始まったばかりなのに、もうバイト?」
「はい、先月末あたりに引っ越してきてすぐに始めました」
サークルに入るつもりが無いというのに、これだけのチラシを貰う彼女の性格が一瞬で想像出来た。すべて拾い集めて渡すと、彼女はお辞儀をして再び礼を述べる。その所作がやたらと清廉で美しく、久々に目を奪われる辞儀と出逢ったような気がした。今までの部活動や父の周りでよく見掛ける淡々とした形式的な辞儀とは違う、誠意が込められたお辞儀。彼女は何か、日本の芸術的な伝統文化でも習っていたのだろうか。いや、人柄から溢れ出るものなのだろう。全くの無意識に感じられるが、それが辞儀特有の堅苦しさを軽減させており、やわらかく美しい。
「大学の校門出て、駅とは反対の裏通りの喫茶店でバイトしてるので、良かったら今度来てみて下さい」
「そうだね、今度行ってみるよ」
「今日2度も助けてもらったお礼、させて下さいね」
春の訪れを乗せた風が、彼女の髪をやさしく踊らせた。頬にかかった髪を耳にかける彼女の仕草があまりにも優美で、花が淡い風にゆらゆらと揺れるかのような情景が脳裏に映し出される。一連の流れが、まるでスローモーションのようにも感じられ、その美しさに時間や周囲を無にして、暫し見惚れてしまっていた。然し、髪をかけて露わになった首筋のラインが、白い陶器のような滑らかを思わせる中、微かに壊れてしまいそうな儚さを纏っていたのも事実だ。
これが、彼女とのファーストコンタクト。ごく普通の、ありふれた出会い。「じゃあまた」と言って去っていった彼女のパステルカラーのスカートが、歌うようにひらりと揺れて、春の空気によく馴染んでいた。
その3日後、彼女が言っていた喫茶店を訪れてみた。確かに学生がよく使う駅とは真逆の方向であり、そこに行くまでにいくつかのカフェや飲食店があるからだろうか、彼女が働く店は比較的住宅街と呼べるところに存在しており落ち着いているようだった。外観からも窺えるアンティーク調の喫茶店は、少し古さを感じさせるが内装も洒落た雰囲気であり、世の中の喧騒を感じさせない穏やかな空間を生み出している。多過ぎず少な過ぎない地元の客も、各々が自分の時間を楽しみながら寛いでいるようだ。
「いらっしゃいま…あれ?」
「こんにちは」
「この前の…!嬉しい、来てくれたんですね!」
仕事着であろうエプロンをつけた彼女は、バイトとは言え仕事を担っているせいか、纏っている雰囲気は些か大人びて見えた。彼女のそそっかしさにばかり遭遇しているような気がするが、やはり同級生よりは幾分か落ち着いている印象を受ける。長い睫毛に囲まれた漆黒の双眸が、深い夜に紛れる憂いを秘めているような気がするからだろうか。然し、それでも春に咲くアネモネのような可憐な笑顔で来店を喜んでくれた事がやけに嬉しくて、無意識に自分の口元が緩んだのを感取した。
ブラウンの木目調がどこか懐かしさを感じさせるカウンターの席に座り、読みかけの文庫本をパラパラと開く。周囲には同じように本を読んでいたり勉強に励む人間も何人かいるが、少し離れたテーブル席では他愛もない話をしている人々など、適度に落ち着きもあり、鬱陶しくない程度の活気もあるようだ。そんな事を思案しながら本の活字を追っていると、珈琲の良い香りが鼻孔をくすぐってくる。彼女が運んできてくれた珈琲はとても品のある風味で、豆から丁寧に抽出された極めて美味な珈琲であると理解出来た。
「改めまして、と言います。月水金と土日のどっちかは此処にいるので、いつでも来て下さい」
気づいたら、それから週に一度ほどは彼女が働く喫茶店へ行くようになっていた。話を交わすうちに、彼女は漸くオレと同級生だと言うことに気づき「先輩かと思ってた」と目を丸くさせながら言った。理由は「落ち着いて大人びて見えたから」らしい。彼女も黙っていれば、というのは些か失礼かもしれないが、比較的落ち着いている部類に見える。会話の中では無邪気そうに見えるものの、底の見えない湖のように静かな雰囲気を纏っており、その相反するものが彼女をより魅力的に感じさせるのかもしれない。いつの間にか、この喫茶店で過ごす時間が自分の中で大きな存在になっていた。
偶然にも学部も同じ事が分かったのを切欠に、キャンパス内でも度々会うようになったり、呼び方も最初は“さん”と呼んでいたが「余所余所しい」と困ったような笑顔で言われてしまったので、いつからか下の名前で呼ぶようになった。大学生になると、周りの学生も異性の事を何の下心も無く名前で呼んでいる者も多かった為、特に違和感を感じたことはなかった。

あの頃はまだ、自分が彼女に対して一体どのような感情を抱いているのかよく解らなかった。何と形容すべきか名前の分からないこの感情は、しばらく宙を彷徨っていたのだろう。然し、今ならよく解る。始まりこそは俗に言う一目惚れだったのだと。まさか、自分が一目惚れなどという曖昧な理解しか抱いていなかった現象に遭遇するとは思っておらず、あれが一目惚れだったと把握するまでには幾分かの時間を要した。最初は「雰囲気」などという不明瞭で不明確なものに惹かれるものかと疑っていたが、彼女のその「存在」すべてに惹かれたのだと思う。彼女に惹かれたのは必然であり、そして彼女を知れば知るほど胸が締めつけられるように苦しくなる。初めて体験したその出来事は、自分の中にあった小さな白黒の世界が、色彩鮮やかに色づいたような気さえした。
「え、すごい久しぶり!」
「そうだね」
「赤司くん、素敵なオトナの男性になったね」
「こそ、美人過ぎて最初は誰だか分からなかったよ」
日本の歴史を感じさせる東京駅と様々な企業の高層ビルが融合している丸の内。仕事関係でもプライベートでもよく訪れる街のひとつである。今日も些細な用事で立ち寄り、待たせている車に戻ろうとしたところ、スイートピーの小さな花束を持ったひとりの女性に声を掛けられた。まさか、こんなところで会う人物だとは一切思っておらず、あの頃とほとんど変わらないやわらかい声を聞いて、ようやく彼女がかつての同級生であるだと理解出来た。風でひらひらと桜の花びらが舞う中、春を思わせるベージュのトレンチコートを羽織っている彼女は「相変わらず上手だね」なんて言うが、本当のことだ。聡明で美しく、然し以前にも増して泡沫のような佇まいがある。爪先で触れたら壊れてしまう、シャボン玉のような脆さ。
「は今どうしているんだ?」
「喫茶店」
「え?」
「私、今も相変わらず喫茶店で働いてるの」
「あの大学近くのか?」
「ううん、店、を持ったの」
「すごいじゃないか。おめでとう」
「ありがとう。あ、もう行かなきゃ。今度時間がある時にでも遊びに来て」
「ああ」
渡された一枚のカードの裏には店名と住所が書かれていた。邂逅した今日を境に、壊れるように止まっていた時間は再び動き始めるのだろうか。それともー。春の風で飛ばされないよう、カードを持つ指に自然と力が入る。
変わっているかもしれないが、彼女の携帯の番号や連絡先は今でも残してある。それでも、今まであえて連絡を取ろうとしなかったのは、きっと怖かったからだ。
最初で最後の、初恋の、人。
散ってもなお美しく、同時に悲愴感を漂わせる桜の花びらは、風に乗って何処へ行くのだろうか。