02.Summer

 蝉の鳴声が脳髄の奥まで刺激する、やたらと五月蝿い夏だった。

 大学生の夏休みは非常に長い。休みの間は彼女が働く喫茶店に訪れる表面上の理由が無くなってしまい、自然と会う日が減ってしまった。いつの間にか彼女と会うことが日常の一部となっていたせいか、せっかくの夏休みだというのに妙に落ち着かない日々を過ごす。然し、大学進学と同時に始めたひとり暮らしの寂寞とした空間にも慣れた頃だろうか。唐突に彼女から連絡が入る。携帯だけでなく、心臓までゆるやかに振動したことに、自分自身が一番吃驚した。


「赤司くん、本当に申し訳ないです!」
「構わないよ」


 大学近くのカフェで待ち合わせをすると、先に着いたらしい彼女はアイスカフェオレを飲んでいた。久しぶりに会ったからだろうか、少し痩せたように見える。それに、眩しいくらいの真夏の日だというのに、彼女の目にはやはりどこか冬のような静けさを感じた。
 世間からして見れば、学生の夏休みは遊び以外の何物でも無いだろう。実際、長い解放感に溢れた自由な休みを満喫している学生も多い。然し、休みだからこそ労働という名のアルバイトに精を出したり、課題という勉学に悪戦苦闘する学生も少なくはない。彼女は、その両方であった。偶然同じ般教を選択している講義でも課題が出ていた。講義中、彼女が船を漕ぐようにゆらゆらと頭を揺らしている姿をよく見掛けた事がある。おそらくバイトで疲れていたのだろう。空白が美しいルーズリーフは、彼女を後で苦しめることになった。先程のバイブレーションはその空白を埋めるためのSOS。他人になら、講義中に寝るなと言いたいところでもあるが、奨学金を受けながら学費も生活費もすべて自分で負担しているらしい彼女にそれを言うのは少し躊躇われた。それに、彼女はいつだって一切の言い訳をしない。きっと本人が一番自覚しているのだろう。それより、自分勝手だとは思うが頼ってくれた事が何より嬉しかった。彼女は、こちらが手を差し伸べる隙を与えてくれないくらい、ひとりで頑張り過ぎているような気がしたから。
 涼しげな笑顔でグラスに纏わりつく水滴をなぞる彼女の指先は、初めて見た時と変わらず艶やかで美しい。ストローでかき混ぜる度にカラカラと鳴る氷の音が、時間を忘れさせてくれるかのように心地良く響く。貸したノートをパラパラと見た彼女が「キレイ…」と呟いた言葉には、聞こえないフリをした。


 それから数週間後の、高い大空に未だ肌が焼けるほどの太陽が存在している夏の終盤。彼女から再び連絡が入り、貸していたノートを返してもらうため、大学近くの駅で会うことになった。これからバイトに行くという彼女はTシャツにデニムという、いつもよりラフな服装だ。こうしてみると、彼女は本当に不思議な存在である。彼女の容姿や雰囲気について忌憚の無い意見を述べるとしたら、特別美人や可愛いというわけでは決してない。何処にでもいそうな、普通の女性だ。然し、やはり彼女は自分にとって紛れもなく「特別」な存在だと言える。外見や佇まいというものは、内面から滲み出るものなのだろうか。彼女を見ていると特にそう思う。これ程までに惹かれるのは、きっと彼女の「存在」すべてに魅力を感じているからだろう。何だか今日はいつもより日差しが強い気がする。


「すごく助かった、ありがとう」
「どういたしまして」
「ねえ赤司くん、明後日って時間ある?」
「明後日は…大学の図書館に行った後なら空いているが」
「じゃあさ、その後一緒に夏祭りに行かない?」
「夏祭り?」
「そう、明後日ここら辺で割と大きなお祭りがあるんだよ」
「へえ」
「教科書のお礼に是非!なんか奢るから!」


 夏祭りなんてものは中学生の時以来だろうか。あの頃を懐古するその響きに、多少浮かれたのを自覚した。これが、普通の学生の、普通の夏休みなのだろうか。



△▼△



 茜色の夕焼けから夜の濃紺へ移り変わるグラデーションが美しい時間帯。駅は既に多くの人で溢れており、この雑踏の中で彼女の姿を探すのは困難そうだ。時間を守るタイプの彼女にしては珍しく、時計の針が待ち合わせ時間を示しても現れる気配がない。もしかしたらこの人混みに埋もれてしまっているのかもしれないと、待ち合わせ場所から動こうとしたその時。強く、腕を掴まれた。振り向くと、人混みに揉まれながらやってきた彼女の安堵したような表情と出会う。彼女の手に触れられている腕がじんわりと熱い。絹を彷彿させるやわらかそうな髪が少し乱れていた。直してあげても良いものだろうかと、数秒しか経っていない筈なのに、何時間も悩んでしまったような気がして、慣れない空気に些か居心地が悪い。結局、伸ばしかけた手を引っ込め、空気を握り締めることしか出来ない臆病者の自分に、反吐が出るほどの情けなさを感じた。そんな感情を誤魔化しながら、彼女と共に提灯と屋台で作られたいつもとは違う表情を見せる通りを歩く。


「遅れちゃってゴメンね」
「いや。それより、」
「何?」
「今更だが、実家に帰ったりしなくて良かったのか」
「…ああ、うん」
「そうか」


 滲み出る彼女の表情を察知し、あまり深くは追求しないことにした。何か引っかかるものを感じながらも、彼女と一緒に過ごしているこの時間が何か特別なようなものに感じてしまう。温もりが宿る橙の提灯は、まるで違う世界にやってきたかと錯覚させられるほど、幻想的に見えた。
 思わず口元に緩い笑みが浮かぶと、彼女の視線に気づく。彼女に見られている顔の筋肉が緊張しているようだ。今まで他人を観察する機会は多々あったが、あらゆる場において見られることも少なくなかった。人の視線には慣れている筈だった。そうか、これが―


「赤司くん、そうやって笑ってるとやっぱり年相応だね」
「え?」
「雰囲気、はオトナっぽいから」


 彼女の言う「雰囲気、は」という言葉が意味も無く気になり、何も言葉を発せなかった。そんなオレに待つように告げた彼女は何処かへ行き、三分後くらいに何かを二つ持って戻ってきた。「はい」と笑顔で差し出されたのは艶やかな水飴でコーティングされた赤いリンゴ飴で、躊躇いながらも受け取ると「お礼そのいち!」と、リンゴ飴と同じくらい可愛らしい、楽しそうな笑顔までくれた。いきなりで呆気に取られ、またしても言葉を生み出せないでいると「あ、リンゴ飴とか子供っぽかったかな?」と心配そうな表情を浮かべるので「いや、好きだよ」と答えると、彼女はまた微笑んだ。けれど、今までの笑顔とは少し違う、この夏を置いて何処かへ行ってしまいそうな、そんな笑顔。つい縋りつきたくなるような笑顔だった。
 そして、そんな夏祭りが想い出になったあと、彼女の姿を一切見掛けなくなる。







 蝉の抜け殻がそこらに落ちている夏。
 京王線沿いにある一件の喫茶店。無理矢理時間を作って春に再会した彼女の喫茶店に立ち寄ってみることにした。今では雑誌やテレビでもカフェ特集がされる程、この業界は華やかであり外装や内装の雰囲気を売りにしているお店や変わったメニューや特徴を展開するお店など、水面下で他店との比較やプレッシャーと戦いながら日々奮闘している印象がある。ここ近年はヨーロッパやアメリカなどのカフェを模した雰囲気の店も多く、夜になるとお酒を出す店も少なくはない。カフェと喫茶店の明確な境界線ですぐに思い浮かぶのは酒が提供されるか否かというくらいだが、不明確ながらもやはり店にとって雰囲気というのは集客率を図るための大事な要素になる。この店は、彼女が昔働いていた大学の近くの喫茶店と雰囲気が似ていた。何処かレトロでノスタルジックな落ち着く雰囲気。住宅街の、緑も多い良い立地だ。


「いらっしゃいま…赤司くん?」
「こんにちは」
「嬉しい、来てくれたんだ!」


 あの時と同じ光景がフラッシュバックした。外観を裏切らない内装は落ち着きがあるもので、店内は賑やかというわけではないが。常連も何人かいるようできっと贅沢をしなければ充分やっていけるだろう。センスの良さそうな調度品はフランスの蚤の市にありそうなアンティークさを窺わせる。
 カウンター席に座ると、彼女が珈琲を淹れてくれた。あの頃よりずっと美味しくて、然し苦い。

 どうやらこの喫茶店は彼女がひとりでやっているらしく、飲料はもちろん、パスタやカレーといったランチメニューやデザートなども充実しているらしい。店の外に出ていたボードには、温もりのある彼女の字で、メニューが書かれていたりもした。
 ― そういえば、ちょうどこの時期。あの夏祭り以降からだろうか。彼女と会っていないのは。
 彼女の以後を何も知らない。彼女があれから何を思い、何を望んで、どういう道へ進んだのか。彼女がどうして今、喫茶店をやっているのか、何も知らない。


、今週の土曜の夜はどうしてる?」
「お店は夕方までだから家に帰るだけだけど…」
「あの夏祭りに、大学生の時に一緒に行った夏祭りに行かないか?」


 何故、そんな事を言ったのか自分でも理解出来なかった。言葉の先にある未来や利益など一切考えず、ただ心のグラスにたまった感情が溢れて、声となって漏れてしまった。そんな感覚だ。彼女は驚いていたようだが、しばらくすると昔を思い出させるような矛盾した微笑みで頷いてくれた。



△▼△



 土曜日の夜、数年ぶりに昔通っていた大学の近くまでやってきた。あの頃は無かった建物や店が存在していたり、あの頃は存在していた店が閑散としていたり無くなっていたりと、様々な存在の有無が時間の経過を感じさせる。もうあの頃には戻れない、そう感じさせられるには充分であり、懐かしくも切なくもなった。
 駅からしばらく歩くと道沿いに提灯が飾られ、懐かしい雰囲気を醸し出している。祭りは数年前のあの時とあまり変わっておらず、少しばかり安堵した。賑やかな笛の音や太鼓の音が遠くで聞こえる中、待ち合わせ場所から彼女の姿を見つけたが、彼女はこちらに気づいていないようだ。子どもみたいにきょろきょろと辺りを見回しており、その様子を暫く見ていたい衝動にも駆られたが、早く会いたい。気づいたら、理屈という思考回路をゼロにして本能のまま歩き出していた。そして、彼女の腕を、強く掴む。


「び、っくりした」
「オレに気づいていないようだったからね」
「人、が多く、て」
「どうかしたのか?」
「…前会った時はあまり感じなかったけど、赤司くん背伸びた?」
「流石にあの頃からは伸びていないよ」
「でも、なんだかすっかり大人の男性になったね」


 見上げてくるその双眸に、不思議と目を逸らしたくなった。深い夜のような彼女の瞳は、何もかもを脆くさせてしまいそうだ。彼女にこの動揺が悟られないように掴んでいた腕をゆっくり離す。危うく、引き寄せてしまうところだった。理性が働いたおかげで平静を装えているとは思うが男というものは、否。男ではなく「自分」は、本当に単純で愚かだ。一体何がしたいんだ?そう自問しても、当然答えなんてものは見つかる事も無く、今まで生きてきた中で一番難しいと感じる問題のひとつだ。
 昔と同じ、相当慌てていたのだろうか、少しだけ彼女の髪が乱れている。昔は伸ばせなかったこの手。触れることも出来ず、ただ空気を握りしめることしか出来なかった行き場のない手が、数年の時を経て変化する。


「え…」
「急いで来てくれたんだね。髪が少し乱れている」
「あ、りがとう」


 僅かにまだ映えるこの夏の夕陽のせいか、それとも照れているのか、彼女の頬はほんのりと紅く染まって見えた。そして、彼女の髪に触れたこの指は、少し震えていた。
 屋台も変わらず多く出ており、数年ぶりだがやはりとても賑やかで華やかな祭りだ。ふと、ある屋台の看板を見つけたので彼女にしばらく待つように告げる。そして、再び彼女の元へ戻ると彼女はオレの手元を見て、目を丸くさせた。「前はオレが奢ってもらったから」そう言ってリンゴ飴を差し出すと、彼女は小さな手で嬉しそうに受け取ってくれた。たった数百円でこんなに喜んでくれる女性は、今の自分の周りにはきっといない。


「大学の頃に行ったお祭りの時、本当は浴衣着て行きたかったんだ」
「どうして着て来なかったんだ?」
「赤司くんとの待ち合わせに遅刻しちゃうと思って…まぁそうでなくても実際少し遅れちゃったけど」
「男は女性が美しくなるための時間くらい平気で待てるよ」
「…赤司くんは相変わらずだね。じゃあ尚更後悔!もう似合わないだろうから」
「勿体無いな。ならきっと今でも似合のに」
「そんなことないよ」


 ―じゃあ来年は見せてくれないか。その言葉を飲み込んだのは、来年は無いと本能的に悟ったからだろうか。
 あの時と殆ど同じ夏祭りの光景が広がる。唯一違うのは、この夜空の星に負けないくらい輝く、彼女の左手薬指の指輪だけだ。

 蝉の死骸が転がっている夏の終わり。気づいたら、蝉の声は聞こえなくなっていた。


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