最初から、確かに密かに存在していた不安。そんな不安を抱えていながらも野放しにしていたのは、余裕があるからでも勝算があるからでもない。ただ単純に、目には見えない恐怖に怯えていただけ。怯えれば怯えるほど、愛することでしかこの脆弱な心を守ることが出来ないなんて、ただの愚かで悲しい馬鹿である。それでも、馬鹿は馬鹿なりに愛を囁くのだ。


 陽泉高校バスケ部であると、その恋仲であり同じく陽泉高校バスケ部の氷室辰也、部活が終わると毎回一緒に帰るのが当たり前となっていた。一緒に帰る、というよりは彼女を家まで送ることが一番の目的である。
 は中学の時に両親が仕事で海外に行くことになり、自分は祖母がいる秋田にやってきた。しばらく祖母と2人で暮らしている日々が続いていたが、その祖母が数ヶ月前から入院をしてしまい、は必然的に一人で夜を過ごす日々になった。部活が終了する頃には月明かりしかなく、そんな時間に彼女を一人で歩かせてしまう事を心配した氷室は、このように部活があって遅くなる日などには必ず彼女を家まで送り届ける。翌日、稀に学校も休みで部活が休みの時や、午後から練習開始の時などは彼女の家に泊まることもあるのだ。

「最近雨多いですねー…」
「そうだね、気温もなかなか上がらないし」

 この日は生憎の雨だった。雨の中、2つの傘が寄り添いながら歩く姿は、1つの傘で歩くのとはまた違う情景を見せる。雨が降ると、翌日学校があろうと練習が通常通りあろうと、氷室はの家で少しばかり短い時間を過ごす。これは以前、雨の激しい日があった時、自分の家で少し休んで雨が穏やかになるのを待ってみれば、と言ったの提案が、今も暗黙の了解のように生き続けているからだ。もちろん、今では些細な雨の時でも、氷室はの家で少しの時間を一緒に過ごす。今日も大したことのない雨だが、氷室はいつもと同じようにと同じ空間で、同じ時間を過ごすのだ。

「あったかいコーヒーで良いですか?」
「うん。ありがとう」

 まるで当たり前のようにが飲み物を用意して、氷室がリビングと呼ばれる空間でが来るのを待つ。例えコーヒーがインスタントでも、がいれると他の人間がいれるのでは、価値が全く違う。そう思ってさえしまうほど、彼女の存在は氷室にとって大きいのだ。何となく、何となく、すぐにでもに触れたくなった氷室は、お湯を沸かしてコップを用意している彼女を後ろから無音で包み込む。

「わっ…もう。毎回びっくりするじゃないですか」
「そろそろ慣れたら?」

 彼女のお腹に手を回し、後ろから抱きしめるといつもと同じ柔らかい香りに包まれる。包み込んでいるのは自分なのに、何故か逆に包み込まれるような感覚になるこの瞬間が、氷室はたまらなく好きだった。後ろから髪や頬に口づけをしても彼女は何も言わない。ただ、耳を真っ赤にさせて、他の人間なら見逃してしまいそうな小さなサインを出すだけだ。そのサインを、もちろん氷室が見逃すわけがなく、ただ純粋に愛しいと感じて再びその耳が赤く灯っているところに小さな口づけをひとつ落とす。

「ん…もう!コーヒーがいれられません!」
「ははっ。うん、可愛いね」

 前を向いていた彼女が、誰もいないのに生まれてしまう恥ずかしさから、訴えを示すために氷室のほうへ向いた瞬間、くちびるを容易く塞がれる。唇から額、鼻筋、頬へと流れるようなその口づけは、お湯を沸かしているやかんが止めるまで止まらない。やかんが音を鳴らせば氷室はの額にちゅ、という音を立ててを待つため先ほどまで一人でいた空間へ戻る。の熱も温度を保ったまま、コップに熱い湯を注いで氷室の元へと運ぶ。そのあとは2人並んでテレビを観たりと、バスケをしている時とはまるで真逆なように、穏やかな時間を過ごす。そう、これは2人にとって有り触れた日常なのだ。


△▼△


 翌日、はいつものように朝練のため少し早く学校へ登校し、朝練が終わると教室へ向かう。朝練が終わったあと同じ部活の人間であり同じクラスの人間でもある紫原敦と教室へ向かう。紫原が着替え終わって、部室から出てくるタイミングとが体育館の戸締りをして出てくるタイミングが合えば、同じクラスなので自然と2人で教室へ向かう。2人はすれ違うクラスメイトに挨拶を交わしながら席へ着いた。この2人の席は前後であり、紫原は窓際の一番後ろ、は紫原のひとつ前の席だ。紫原は普通の人間に比べると体格が大きすぎるため、必然的に毎回一番後ろの席にされていた。本人も後ろの席に特に異存はなく、たまたまこの前の席替えでが紫原の前になったのだ。

「だるーい。ねむーい」
「こら、敦くん!ちゃんと次の授業の準備して!」

 は教室の中でもマネージャーのようだった。紫原を気にかけ、いつもさり気なくフォローをしている。もちろん自身は恩着せがましくそんな事をしているわけではなく、単純に無意識だ。対する紫原も、最初はこんなに口を出して来るを面倒くさいと思っていたが、今ではこの光景が当たり前のように感じ、特に何も言わない。はよく、休み時間に体を横に向け、顔は後ろに向けながら紫原と話をする。もちろん学校の話や部活の話、お菓子の話など下らないことも会話する。氷室と話している時間より紫原と話している時間のほうが多いかもしれない。

「室ちん、最近超熱血なんだけどー」
「試合近いからじゃない?」
「えー、からも何とか言ってよ」
「良いじゃん、一生懸命で」

 今日もいつもと同じように休み時間、紫原と他愛のない会話を繰り広げる。紫原は、大体その大きな身体の腰を思いっきり曲げながら、怠そうに頬杖をついて話していることが多い。うつ伏せになり手の甲に自分の顔を乗せている時も多々ある。そのため、たまに紫原がを見上げながら話すこともあるのだ。今日も紫原は授業中に寝ていた名残からか、休み時間も俯せになって顔だけ上げてと話をしている。にとって、自分よりはるかに大きい紫原の視線が自分より下にある事が最初違和感だらけで仕方なかった。しかし、今ではもうそんな光景にも慣れている。

「うわー惚気じゃん」
「え、惚気じゃないよ!」
さー、室ちんに不満とかないの?」
「え、何で?」
「いや、珍しいなーと思って。あまり彼氏の愚痴とか悪口とか言わない子って」

 と紫原はたまに氷室の話をすることがあった。それは、紫原にとって氷室が同じ部活内のそれも同じレギュラーというチームメイトであり、にとっては同じ部活の先輩というのもあるが、何より恋人という共通の人物であるからだ。もちろん氷室だけではなく、他の部員の話もたまにするが、やはり氷室の話題が自然と多くなる。しかし、から氷室との恋仲の話をすることはあまりなかった。もちろん、紫原からも滅多に聞かない。あまり他人に興味のない紫原は、特に2人の仲を探るようなことはしないのだ。ただ、たまにこのように氷室の話題が出た時に、気まぐれで聞くことはあった。

「そう?」
「うん。珍しいと思うよー」
「まぁ、ないっちゃないけど、あるっちゃあるかな」
「え、何かあんの?」
「そんな大したことじゃないけど、優し過ぎるなーとか」
「うわ、結局惚気だし」
「違うって!しかも、言わせたの敦くんなのに!」

 そんな日常的な会話をして、今日も通常通り授業を終えたは紫原と共に部活へ向かう。選手たちは汗を流して練習を行い、は忙しく体育館内を駆け回る。はこの強豪を誇る陽泉高校バスケ部の唯一のマネージャーだった。もちろん部員数も多く、必然的に業務量は多くなる。それでも、彼女はいつも笑顔でテキパキと自分の仕事をこなし、部員の人間が集中して練習出来ることに喜びを感じでいた。

 部活終了の合図が告げられると、それぞれの部員は解散し帰宅をする。しかし、やはりレギュラーと言うべきだろうか。この陽泉高校のレギュラーを担う選手たちは、大抵毎回残って自主練を行うのだ。紫原は残らずに真っすぐ帰りたいのだが、いつも氷室に捉まり、自主練に付き合わされることになる。今日も部活が終わりしばらく経つと、自主練をしていた他のレギュラーも帰宅をしたようだが、氷室と今日も氷室に捉まった紫原はまだ残っていた。氷室と帰ることが当たり前になっている は、その間データや録画をしておいた試合のディスクをまとめたりしながら氷室を待っている。これはいつもの光景である。しかし、彼女もひとりの華奢な女性。体力に底がつくことも、もちろんある。は今まで賑やかだった体育館から解放され、静かになったこの部室が奏でる眠気にそのまま誘われ、疲れがあったこともあり、部室のベンチで横になって寝てしまった。ベンチの上にはと書きかけのノートとシャーペンがある。

「あちー。マジ疲れるー…って」

 そんな中、入ってきたのは紫原だった。少し休憩したいと言って一瞬抜け出してきたのだろうか。顔を歪ませながら部室に入ってきたのだが、扉を開けた瞬間、寝息を立てて寝ているが目に入ると、自分でも目が少し見開いたのが分かった。が部室で氷室を待っていることは日常的だが、今までこんなにも無防備に寝てしまうことはなかった。そういえば、授業中もいつもちゃんと起きて真面目に授業を受けている気がする、と紫原は何となく思い出した。

ー、風邪引くよー」
「んー…」

 の頬をペチペチと優しく叩いて起こそうとするが、夢の中なのか起きそうでなかなか起きない。初めて触れたの頬の柔らかさに、紫原は感触を確かめるように頬をつまんだり指でなぞったりしていた。が「ん…」と小さく声を漏らし身を少しよじると少し制服が乱れ、スカートの裾から覗くの柔らかそうな脚がより広い面積を見える。あ、ヤバイかも、と直感的に鋭く感じ取った紫原だが、感じた時には既に時が遅いことが多い。の頬に指を滑らせ、流れるように親指での唇をふに、と押すように触れる。想像していたよりも柔らかいそのピンクは、紫原を誘うのに充分な魅力を持っていた。少しだけ開かれているその唇がたまらなく欲しくなった。誰かのものと分かっていると余計欲しくなる。

、俺ちゃんと起こしたから」

 起きないが悪い―心の中で全く意味の無い言葉を吐き、彼は眠り姫にひとつ、くちびるを静かに落とした。




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