紫原は眠っているの唇に自分の唇を合わせた。最初は合わせるだけの唇も、その隙間から微かに漏れる艶やかな誘いに、溺れていくように、何回も何回も機械のようにキスをする。が苦し紛れの吐息を漏らせば、それごと飲み込んでしまうような深い愛を、望まれてもいないのに押し付ける。
「んっ…!?」
目を覚ましたの視界に映ったのはいつもとは違う淡い紫。そう、この紫はよく知っていた。よく知っているからこそ、驚きを隠せないのだ。抵抗よりも驚きのほうが大きいのだ。それでも抵抗の意志を伝えるため、紫原の大きな肩を弱い力で押し返す。ほどの力では紫原に敵うわけもないのだが、意外なほど呆気なく距離が離れた。離れた瞬間、息を吸い込むため荒く呼吸をするとは違い、紫原はいつものペースを崩さない。彼にとっては何ら特別でも何でもない、ただの行為に過ぎないのだ。
「え…な、に?」
「何って」
「な、え…?敦くん今、私に…キスした?」
「うん」
「な、何で?」
「何でって、したかったからに決まってるじゃん」
にこの言葉の意味は寸分も理解出来なかった。したかったから、と言って寝ている間にキスをしても良いのだろうか。恋人同士ではない、のにだ。その上、自分は紫原のチームメイトである「氷室の彼女」という立場である。仮にも恋人がいる人間に、したかったから、という軽い理由だけで、愛を育むその行為を勝手にしてしまって良いものなのだろうか。もちろん、彼の性格は知っている。よく知っているけれども、そのようなことを友人である自分にもしてしまうなんて、衝撃が大きすぎる。所詮、自分も彼の周りにいる女の子と変わらないのか。性的な対象ではなく、ひとりの友人と思ってもらっていると信じていただけにのショックは大きかった。
「敦くん…どうかしたの?」
「…は?」
「だって、こんなこと…敦くんらしく」
「うわー、何ソレ。まさか、らしくないとか言うわけ?」
「え、」
「超ウザイ。がオレの何知ってんの?」
「…」
「ただ、したかったからって言ってんじゃん」
刹那、破裂するような音が聞こえた。が紫原の頬を叩いた音だ。何かが弾けるような、そんな音。何が壊れて何が弾けたなんて、当人同士は分かっているわけないのだが、その音は確実に二人を侵食した。叩かれたあと、一瞬だけ紫原は驚きを見せる。しかし、またすぐにいつもの顔に戻りの顔を見た。涙を流していないのに、泣いているような顔だった。そんな顔に手を触れようとした瞬間、彼女は音を大きく立て部室から出て行った。先程までベンチの上にあったノートとシャーペンが床に落ちるくらい、ベンチはによって激しい衝撃を受けた。
が出て行った部室で紫原はひとり笑った。あまりにも皮肉なその発覚に、渇いた笑い声が静かに喉を鳴る。唇を重ね合わせた瞬間ではない、破裂の音を聞いたその時。その時、初めて自分の心が脆く崩れていくのが分かってしまった。その時、初めて自分の心臓が痛くなることに気づいてしまった。ああ、彼女が好きなんだと。
△▼△
「あれ、どうかした?」
部室を飛び出したが向かったのはもちろん氷室の元だった。ちょうど自主練に区切りがついた頃だったのか、氷室はボールを片付けている途中だった。汗はまだ引いてはおらず、髪や首筋に滴のように落ちる汗がには苦しく思えた。いつもなら、氷室が自主練を終えたあとにがいる部室へ向かうため、体育館にやって来たを氷室は不思議に思った。しかし、時計を見るといつもより時間が遅く、そのためにがこちらまでやって来たのだと思った。は、氷室が「ああ、ごめん。遅くなっちゃったね」と言っている言葉も聞かずに、急に氷室の胸へ抱き着いた。
「え?」
「…」
「…、どうかした?」
から氷室へ抱き着くことは滅多にない。おまけに何も言ってこないので、氷室の頭には余計疑問が募る。の顔は氷室の胸へ押し付けるようにして隠されているため、表情が一切分からない。こんな彼女は今まで初めてで、何かあったのではないかと心配になった氷室は、そのままを受け入れ頭を撫でてやる。そうすると、の抱き着く力が少し強くなる。けれど、それは本当に些細な力だったので、氷室が気づく程ではなかった。
「ちょっと、抱き着きたくなっただけです」
「…今日は嬉しいこと言ってくれるね」
氷室はの頭に少し力を入れ、顔を少しだけ上げさせると額にキスをする。の頬は赤が広がり、今度はその頬にちゅ、と音を立ててキスをする。は動揺していた心が少しだけ落ち着いたような気がした。けれども何も解決なんてされていない。着替えるために部室へ向かう氷室と歩いているこの短い時間が、闇夜に溶けてしまえば良い、と心から願うほど嫌だった。紫原が何を考えて自分にキスしたのかなんて、今でも分からないが、今は顔を合わせたくなかった。
「あれ?アツシ、帰っちゃったみたいだな」
「え…?」
「、さっき会わなかった?」
「会って、ないです」
そこにはもう紫原の姿はなかった。このように急に姿を消して帰宅してしまうことは今までも頻繁にあったため、氷室は特に何の疑問も持たずに着替え始める。先程、が立ち上がった際に、落ちてしまったノートとシャーペンはベンチの上に戻されていた。もちろん、そんなことは知るわけないのだが。
いつもと同じように二人並んで歩き、の家へ向かう。意外にも、は落ち着いていた。落ち着いて氷室と会話をして、いつもと何ら代わり映えのしない景色を眺めながら、大地を一歩一歩踏み歩く。暗い道でも、何も怯えず不安を感じずに歩けるのは、やはり氷室が隣にいるからだろう。しかし、もちろん稀ではあるが氷室がを送ってあげれない日もある。そんな日は氷室が予め他の人間に頼み、と一緒に帰り、家まで送り届けるよう頼んでいた。その中に紫原も入る。そう、この帰り道は紫原とも歩いたことがあるのだ。
「じゃあ、今日はここで」
「…はい。ありがとうございます」
「?」
「あの、」
を家まで送り届けた氷室は帰ろうとするが、少しだけの様子が違うことに気づき、踵を返すのを躊躇っている。今日は雨も降っていないし、明日が休日なわけでもない。むしろの家に上がったり泊まったりすることのほうが稀なので、今日もいつも通りを送り届けたあとは自分の家へ戻ろうとした。けれども、は何か言いたそうに氷室のジャージの裾を掴み、逃さない。そして、言葉はなかなか紡がない。足元へ向けている視線はなかなか定まらず、まるで宙を舞っているようだ。しかし次の瞬間、は氷室の目を真っすぐ見つめると自分でも驚く台詞が口から出た。
「ちょっとだけ…キスしてくれませんか?」
「え?」
「あ、えっと、その…」
「…、やっぱり何かあった?」
「いえ…ただ、してほしいなって思って」
は自分でも何を言っているのだろうと思った。これでは先程の紫原と何ら変わらない。ただ「したかったから」キスをしてきた紫原と、ただ「してほしいから」キスをしてと氷室に願う自分。唯一違うのは、紫原とはあくまで友人であり、氷室とは恋人であるという関係の違いだけだ。否、それだけあれば充分だと思い込むことにした。紫原と自分がキスをするのは不自然だが、氷室とのキスは溶け込むほど自然のことなのだとは思うことにした。
「そんなこと言ってくれるなんて、夢なら醒めてほしいくらいだよ」
「え…?んっ」
それは少し予想外の深い愛が吐き出されるようなキスだった。首の裏に大きな手が回され、今の不安を吸い込んでくれるような口づけ。舌先から伝わるその温度は間違いなく熱く、心だけではなく、身体全体が熱で溶けて消えてしまいそうな程だ。きゅ、とはその小さくて細い指で氷室のジャージを掴むと、その上から氷室のもう片方の手が重ねられた。たまらなく安心出来るその行動。なのに、それはどれも不安を「取り除いてくれそう」なだけで、取り除くには及ばない。それだけでは足りないのだ。紫原の影響力が大きいのか、氷室からの愛が足りないのか。まさか、そんな贅沢で愚かなこと考えたくない。
は自分で自分が最悪だと思った。何故なら、目を閉じるとそこには淡い色を持った紫しか見えなかったからだ。
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