「あれ、アツシ?」
「…室ちん」
屋上でボーっと過ごしていた紫原の元へ偶然やって来たのは氷室だった。こうして二人で会話をすることに対して、以前は何も感じなかった二人だが、最近は違う。どちらもお互い体を、心を強張らせながら牽制し合っていた。しかし、今は少し違う。二人とも最近までのピリピリとした雰囲気は全く無く、むしろ良い意味で気が抜けている。それは同時に物語がひとつ動いたことを証明しているかのようだった。
「室ちん珍しいね。授業サボるなんて」
「まぁな。アツシは…そうでもないか」
紫原が授業をサボるのは選択授業の時だった。なので頻繁に授業を抜けているわけでもないし、かと言ってサボらないわけでもない。紫原が授業を抜けて屋上へ来るということは、たまにある出来事だった。本人も最近自覚した<が、紫原が授業をサボる時は、よくよく考えればと離れる時だった。の小さな後ろ姿が見れない、が同じ教室にいない時に、無自覚ながら授業をサボることが多くなっていた。だったさ最後まで無自覚なままでいたかった、というのは紫原の我が儘かもしれない。そのことに氷室も何となく気づいたのか、両者の間には沈黙が生まれる。気まずいだとか、そういう感情ではなく、ただどちらも口を開かない。けれども、しばらくしてようやく氷室が口を開いた。
「オレ、にフラれたんだ」
「…は!?え、何で…!?」
「昨日言われたんだよ」
△▼△
「私と別れて下さい」
この言葉を聞いた瞬間、氷室の思考回路は全て停止した。しかし、そう言われても仕方がないとすぐに思えた。彼女が大好きだから、彼女を愛しているから、彼女と一緒に少しでも幸せな時間を共有したいから。だから恋人という関係になったのに、気づかないうちに距離は近くなるどころか遠くなるばかり。どうしてもっと早く気づいてあげられなかったのか、どうして自分は彼女に言いたいことを伝えられていなかったのか。大事すぎてそんなこと出来なかっただなんて、情けなくて馬鹿で間抜けで愚かな言い訳である。浮かんで来るのは自分に対する疑問と後悔ばかり。こんな自分より、紫原のほうが彼女に相応しいのではないか、と氷室は一瞬思う。彼女が幸せになるなら、と思ってしまったのだ。
「もしかして、私には敦くんのほうが良い、とか思ってます?」
「え…?」
は上半身だけ起こして、真っ直ぐに氷室を見つめた。その目には一切の曇りがなく、目を逸らせない。そういえば、ここ最近彼女のこういう顔は見ていなかった気がする、と氷室は思った。最近見ていたの顔は困ったような顔だったり、悲しいような顔だったり。笑っていても、どこか儚さを持っていた気がする、そう今なら思う。だから、今まで以上にこのの目に吸い込まれるようだった。芯が真っ直ぐ通っていて優しさが伝わってくるような眼差し。氷室がを好きになった理由のひとつでもあるのだ。は氷室から目線を外し、俯きがちに言葉を紡いでいく。
「氷室先輩のそういうところが嫌いです」
「…」
「そうやって自分を犠牲にしてでも優しいところが嫌いです」
「うん…」
氷室は静かに、ただの言葉を聞いているだけ。何故ならが言っていることはあながち間違っていない、と自分でも思うからだ。紫原を勢いで殴りはしたが、自分の感情をあそこまであらわにしたのは、あの時だけ。が良いなら、が幸せならそれで良いと自分で思い込んで、紫原との争いをかわす振りをして逃げていたのは自分なのだ。今更胸が苦しくなる。本当は紫原に言ってやりたいことが、いくつもあった。にも伝えたい想いがたくさんあった。なのに、それをしなかったのは、全て自分自身の責任なのだ。
「大嫌いです」
ただ、「大嫌い」と言っているくせに、何故の手に水滴が存在しているのか。手の甲にポタポタと落ちてくる雫が、の顔を微かに映している。それが涙だと理解出来たのは、数秒経ったあと。その涙を生み出すでさえ、それが涙だと理解するのに時間が掛かった。頬を伝って流れる涙ではなく、目から手の甲へと直接落ちる涙。それは間違いなく透明で不純物など一切入っておらず綺麗なものだった。
氷室はこれまでの泣いたところを見たことがなかった。おそらく、この学校の人間も誰ひとり見たことがないだろう。紫原に愛を無理矢理押し付けられた時でさえ、動揺はするものの涙を流すことはしていなかった。
「大嫌いなのに…大好きなんです」
発される言葉は、本当に一生懸命生まれた言葉。涙で鼻水まで出そうになるのを必死で堪えながら、途切れ途切れで生まれる愛の言葉。が泣いているというのに、氷室は自分まで泣きたい衝動に駆られた。の頬に手を伸ばせば、確かに感じる体温と生温い目元に存在している涙。は微動だにもせず、自分の想いをどんどん吐き出していく。
「さっきみたいに、私に何かあるなら言ってほしかった。例えば私に悪いところがあったりしたら叱ってほしかったし、気に入らないところがあったらちゃんと言ってほしかった。優しい氷室先輩も好きだけど、言いたいことがあるなら言ってほしかった。そして、私も今みたいに氷室先輩に思ってることを言いたかった。我が儘かもしれないけど、でも、」
は今まで相当想いが溜まっていたのか、ひとりで喋っていく。けれども「でも」に続く言葉は紡がれない。言いたいけれど、涙が邪魔して、溢れるほどの想いが邪魔をして言葉という形にはなってくれないようだ。ただ、氷室にはが何を言いたくて、何を想っているかが分かる。それは氷室もと同じ想いを抱えているからだろうか。を思いっきり抱き寄せ、自分の胸に埋めながら、子供をあやすように頭を撫でる。しかし、は氷室の胸を押し返して、少し距離を取った。そして先程と同じ目で氷室を見つめる。
「だから私と別れて下さい」
「…」
別れを告げている今の状態で氷室に甘えるわけにはいかない。の決意は固く、この言葉はの本心である。言われている氷室より、のほうが緊張しているだろう。この張り詰めた空気の中で、の言葉だけが、静かに、でもはっきりと響き続ける。
「そして、もう一度私と付き合って下さい」
の涙は既に止まっていて、赤い目で氷室に向き合った。今までの上辺だけの関係は終わりにして、新しい愛を育んでいきたい。はそう言っているようだった。こんなことを言ってしまったら、むしろ氷室に嫌われてしまうかもしれない。面倒くさい女だ、生意気な女だ、と思われてしまうかもしれない。それでも、素直になろうと決めたのだから、に後悔はなかった。このことで氷室に愛想を尽かされたとしても、彼女に一切の悔いはない。
「」
離れてしまったとの距離を、氷室は少し縮めた。先程と同様にの頬へ手を伸ばし、目の下を親指でそっと撫でる。その動作から、氷室の想いが全て伝わってくるようだった。本当に触れるように、優しく撫でてくるその感触がにはくすぐったくてたまらない。そんなを見て、笑う。
「…ありがとう」
自分が思っていたよりも大事だと実感する彼女が氷室は愛しくて仕方ない。それは困ったような笑顔と共に出された言葉。氷室のその困ったような笑顔は、自分の気持ちが抑えられない想いからだった。氷室の答えはの唇にひとつ。いや、ひとつでは足りないほどの愛をの唇に、橋渡しするかのように落としていく。ようやく愛に進んでいくのだ。
△▼△
「…ふーん」
「思ったより冷静だな」
「だって…何となく分かってたし」
紫原は、表情ひとつ変えずに氷室の話を聞いていた。見方を変えれば、ただの惚気話にしか聞こえないかもしれないこの話を、紫原はちゃんと聞いていた。今の紫原がどんな気持ちでいるか、氷室には分かる。自分が逆の立場だったことを考えれば容易に想像が出来た。だから、包み隠さず、全てを紫原に話したのだ。それは紫原に対する感謝の気持ちでもあった。
「感謝してるよ、アツシには」
「はぁ?何ソレ。嫌味にしか聞こえないんだけど」
「違うよ。アツシだって自分で何となく気づいてるんだろ?」
自分でも驚いたのが紫原はよく分かった。目を見開いた反応をしたことで、氷室にも紫原の今の気持ちが全て伝わった。紫原にも、何となく分かっていたけれど、気づかないフリをしていたことがあった。それに気づいてしまえば、惨めで仕方がないから。それに気づいてしまったら、泣きたくなるほどの想いがあるから。紫原もそれほどまでにを愛していたのである。
「のために、きっかけを作っていたことに」
ただ見ていられなかった。ただ、に笑って欲しかった。例え自分のことを愛してくれなかったとしても、が幸せならそれで良い。そう思えるほど、紫原はのことが大好きだった。そして、それは奇しくも氷室と同じ感情だったのである。
紫原には、と氷室の恋愛には無理を感じているように見えた。お互い上辺だけで無理をしているような恋愛。二人が付き合っているという事実だけでもそうだが、そんな二人がお互い我慢している恋愛を繰り広げていることが、吐き気がするほど不快だった。だから気づかせてやったのだ。分からせてやったのだ。愛し合ってるなら、もっと幸せになれ、と。自分が悪者になってでも、の笑顔を守りたかった。自分が報われなくても、本気で良いと思えたのだ。
「うざ…」
「ありがとう」
「それ、にも昨日言われたし」
も途中からそのことに気づいていた。紫原が自分と氷室の仲を変えるきっかけを作っているということに。そのことに紫原自身が無自覚かもしれなくても、気づいていながら気づかないフリをしていたとしても、はそのことに対して、そして自分を好きになってくれて「ありがとう」という気持ちを伝えたのだ。
最初にが気づいたのは、紫原に愛を押し付けられた時。その時、の頭には「この事を知ったら氷室が悲しく思うかもしれない」という感情があった。同時に、氷室のことが好きだということを改めて実感したのだ。紫原に初めてキスをされた時こそ、彼のことで一瞬頭がいっぱいになったが、その後に考えるのは氷室のことだった。だから、紫原にあのようなことをされても涙ひとつ出なかったのだ。そして、徐々に紫原によって気づかされる想い。それは氷室も同じである。紫原からや氷室に発された言葉の裏側は、ほとんどが助言だったのだ。
「のこと、泣かせたり悲しませたりしないでね」
「…あぁ」
「そんなことしたら、すぐ奪っちゃうから」
「まぁ、それは無理だと思うけど」
「マジむかつくし…」
実る隙すら無いこの恋は、無意味なんじゃないかと思うことが紫原には何回もあった。そんな無駄なこと、何回もやめようと思った。それでも、叶わない恋を実感した今、やけに気分がスッキリとしている。無意味ではなかった、無駄ではなかったのだ。
二人の下手くそな愛に花束を贈ることで自分の下手くそな愛も報われるような気がした、だなんて本当に馬鹿みたいだ。
でも、何故か心の中は穏やかに笑えるような気がしていた。そんな愛も思い出のひとつ、紫原は珍しく笑っていた。
END
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