自己嫌悪した果てに生まれたのは最良で最悪の結論。何が正解で何が不正解かなんて誰にも理解できないが、それでも大事にしたい想いがあった、感情があった、愛があった。その無慈悲の言葉に、いつか笑ってそんなこともあったと語ることが出来れば、この愛はそれで良いのかもしれないと思うほどこの人を愛していた、のだ。


 紫原は少し遅れて部室へとやって来た。重い腰を上げて、重い身体を引きずって、ここまでやって来たのだ。本来なら、この曖昧な気分で練習をするなどこの上なく不快で堪らないが、ここで練習をサボってしまえばに怒られるかもしれない、という危惧が、唯一紫原を動かせていた。に怒られるのが嫌というわけでも、もちろん良いというわけでもない。もちろん面倒くさいという理由もあるが、それだけではない。それほどまでに、紫原の中での存在は大きなものとなっている。

「あれ?アツシも遅かったんだな」
「んー…室ちんも遅いね」
「オレはちょっと職員室に行っていたから」

 ここまでの空気はいつもと変わらない。二人の間で「」という単語が出なければ、この二人はいつものような雰囲気を纏う。それは紫原が特に何も考えない、という事と氷室が気を遣いすぎるという事が相まって創られる、極めて無駄な世界である。そして前回同様、この普通で特に何もない雰囲気を壊すのは紫原だ。自覚があるのかないのかは、紫原本人にしか分からないが、彼は普通であれば言いにくいだろうことも平気で相手の心を抉る。しかし、必ずしも間違っていることを言っているわけではないので、それがより相手の心を響かせるのだ。もちろん、良い意味でも悪い意味でも。

「オレ、に好きって言った」
「…そう」
「ねぇ、室ちん」
「ん?」
「室ちんはさ、しっかりしてるよね」
「え?何だ急に…」

 紫原は既に少しばかり苛立っていた。そんなことに氷室は気づいていないし、紫原自身も実は気づいていない。気づいていないから、余計に腹が立つ。けれどもその憤りを誰に、何に向ければ良いのかが分からない。結果、出てくるのはおそらく醜くて情けなくて泣きたくなるような言葉。そんな姿を見せてでも手に入れたいものがあった。

「だからさ、のことオレにちょーだい」
「…」
「オレはが傍にいてくんないと無理。でも室ちんにはいなくても良いでしょ?」
「…オレに言うことじゃないだろ。それに、それは」
「まだ分かってないの?」

 氷室の言葉を遮ってでも伝えたい言葉がある。氷室に思い知らせてやりたいことが、紫原にはあった。それは誰よりもを近くで見てきたから、誰よりもの戸惑いや想いに気づいていたから。今のまま、が悩んだりため息をついたり泣きそうな顔をしていたりなど、とてもじゃないけれど耐えられない。だからそれを救うため。決して意地悪や厭味で言うのではない。それはずっと思っていた本音なのだから。いや、むしろ自分にしてはよく今まで口を挟まなかったと自画自賛したくさえなる。

「それ偽善でしょ?嫌なら嫌って言えば良いじゃん」
「…」
「オレに怒ったりすれば良いじゃん。室ちんのさぁ、その優しさは中途半端なんだよ」
「…ずいぶんと言ってくれるな」
「だって、」

 紫原は自分がこんなにも喋る人間だとは思っていなかった。氷室も紫原の饒舌ぶりに、いや。的を得ているその言葉に驚きつつ何も言えなかった。思いっきり乱暴な口調で責められているわけではないのに、何故か圧迫感がある、それは単に紫原の身長が大きいからとかではなく、自分自身でも薄々感じていた戸惑い。けれどもハッキリと明確ではなく宙に浮いているようなものだったので、今この瞬間、紫原の言葉によって身体が固まるほどの衝撃を受けたような気がしていた。

「室ちんのその優しさがを悩ませてるから」

 その優しさがを殺してるようなものなんだよ、しかもその優しさで自分の首まで絞めてるんじゃん、と言う言葉が氷室の脳に響いてくるようだった。事実、紫原はそんなこと言っていないのだが、氷室はそう言われているような気がして仕方がなかった。心の隅でそういう自覚が少しばかり存在していることで、よりそう思わざるを得なかった。

「どう思おうと何だって良いけど、室ちんこそ傷つけないでよね」

 氷室は自分が今まで紫原に言った言葉をそのまま返されたような気がしていた。これではどちらが彼氏か分からない。これではどちらがを大事に想っているか分からない。そんな下らない、つまらない想いだけが脳にこびりついてくる。言うだけ言って部室を怠そうに出ていく紫原を見て、氷室は少し悔しい感情を抱いた。それは紫原に対してではない。自分の小ささと愚かさ、そして情けなさ。自分のダメな部分が全て浮き彫りになってきているようで、その結果不安定になってしまっていると今との関係に唇を噛みたくなるほどだった。


△▼△


 しばらくして、氷室も練習へ合流しレギュラーは全員揃った。もちろん紫原より先に教室を出て行ったも、 マネージャー業に勤しんでいる。一見普通に、部員にタオルや水を配ったり選択をしたり給水機に水を入れたりなど、いつも通りマネージャー業をこなしているように見えたが、本人的には少し違った。

(気持ちが悪い…)

 風邪を引いているつもりはないが、気分が優れないのだ。実は昨日から調子が悪いと感じていただが、ここ最近寝不足ということもあり、そのせいだろうと大して気にしていなかった。吐き気と眩暈が襲ってくる感覚に何度も堪えながら、部員へ向ける笑顔は決して崩さない。部員の前で、具合が悪い、元気がない態度を見せてしまえばチームの士気にも影響が出るかもしれない。は給水機に水を入れるのを利用して、水道で一息つこうと思った。けれども気分は一向に良くならない。水道から流れる水の音さえ不快に感じる。あまりの視界の歪みに耐えられなくなったは、ついに口元を抑えて座りこんでしまった。

「おーい。次の練習…って!おい、どうした!?」

 座り込んでいるの元へやってきたのは福井だった。彼は次の練習メニューを、マネージャーであるに確認しようとやってきたのだ。しかし、そこには座り込んで俯いて顔色が悪いがいた。福井は慌ててまで駆け寄り、彼女の背中に手を当てる。

「あ、ごめんなさい…」
「いや、んなことよりお前具合悪いのか?」
「…すこし気持ち悪くて」
「ちょっと待ってろ」

 既には言葉を発するのも厳しい状況らしい。何かを喋ったら、そのまま何かを吐き出してしまいそうな感覚に襲われていた。その何か、が例えば具合が悪いための嘔吐物かもしれないし、言葉かもしれない。それは分からないが、言葉を紡ぐことには躊躇いを感じていた。福井は自分が着ていたジャージを、座っているの肩へかけると体育館へ戻って行く。そして周囲に気づかれないように氷室を呼び出した。

「おい、氷室」
「はい、どうかしました?」
が倒れてる」
「えっ…!?」

 その言葉に焦りを感じた氷室は、福井と共にの元へと向かって行った。そこには小さく蹲っているが目に入り、氷室は慌てて駆け寄る。元から色の白いではあったが、それ以上にの顔は青白くなっており、それが氷室をより心配させた。氷室はと同じ視線になるためしゃがみ込み、の背中にそっと手を当てる。

、大丈夫?」
「…ごめんなさ…大丈夫です」
「さっきもそう言ってたけど全然大丈夫そうに見えねーから」
「熱はないみたいだけど…気持ち悪い?」
「…はい」
「氷室、お前保健室に連れてってやれ」
「すみません、そうさせてもらいます」

 福井も気を遣ってくれたので、氷室はそっとの両肩に手を置いた。耳元で小さく「大丈夫?立てる?」と聞くが、からの言葉の返事はなく、頷きが返答となった。どうやら相当具合が悪いらしい、と氷室は感じた。ゆっくりとを立たせ、支えるように歩いていく。その二人の後ろ姿を見守っていた福井からすれば、何の問題もない恋人同士だった。お互い支え合っている恋人同士にしか見えなかった。

 の歩く速さに合わせているため、保健室へ来るのには通常の倍以上の時間が掛かった。それにも関わらず、文句を言わず自分の歩幅に合わせてくれる氷室に対して、はたまらなく罪悪感を感じてしまう。
 保健室へ着くと、養護教諭の先生がまだいたため、氷室は事情を話しを預けた。先生に少し待つように言われ、ベッドのカーテンが閉められ、保健室の入口付近にただただ立って待っている。しばらくするとカーテンの中から先生が出てきて、氷室に説明をしてくれた。

「そんなに心配要らないわ。多分休んでいればすぐに治ると思う」
「風邪ですか?」
「…女の子には色々あるのよ」
「そうですか…」
「それに寝不足もあるみたいだし」

 その寝不足というのは完全に自分が原因だろうと氷室は思わずにいられなかった。けれども、特に心配をするほどの病状ではなかったらしく、同時に自分でも驚くくらい安心した。は基本、健康体であったため今まで風邪を引くということもそんなに聞いたことがなく、具合が悪いなどと言っていることも聞いたことがなかった。しかし、それはもしかしたら自分に心配をかけさせないために、わざと安心させるような事を言って頑張っていたのではないか、と思えて仕方がない。毎月、このように具合が悪くなっても頑張ってひたすら耐えていたのかもしれない。そう思うと胸が苦しくなった。

「彼女も大丈夫みたいだし、私そろそろ帰るつもりだけど大丈夫かしら?」
「あ、はい。あとはオレがついてるので」
「じゃあお願いね」

 その先生は「余程彼女が大事なのね」なんて言って保健室を出て言った。そう、大事だから。大事だからこんなにも恐れることがあるというのに、そのせいで彼女を不安にさせていたら、まるで意味がない。氷室はそっとカーテンをめくるとまだ寝ていなかったと目が合った。氷室は近くにあった椅子に座り、の頭をそっと撫でる。

「寝てなくて大丈夫?」
「迷惑かけてごめんなさい…」
「…うん」

 この言葉に、は驚くように目を見開いた。氷室ならこういう時は「そんなこと謝らなくて良いよ」というお決まりの優しい返答をしてくると思っていたからだ。少しだけ苛立ちを含んだその「うん」という答えに些か不思議に思う。けれども、の頭を撫でるその手は慈しみに満ちており、とても優しい。その優しく撫でる手がくすぐったくて、はかぶっている布団を少しだけ上にあげて口元を隠した。

「すごく心配した」
「…ごめんなさい」
「気分が悪いなら素直に言って良いんだよ?」
「…はい」

 怒っているわけではないけれど、叱っているような口調。けれども、それは本当に心配していたということを表しており、には躊躇いばかり生まれる。初めて自分を否定してくれたような気がする。初めて叱ってくれたような気がする。初めて―、本音を言ってくれたような気がする。氷室はに、今まで愛の言葉や優しい言葉をたくさんあげていた。もちろんそれも氷室の本音である。何もかも笑って許してくれるような氷室がは好きであり不満でもあった。ただの我が儘に過ぎないかもしれないが、もっと自分への不満もぶつけてほしかった。…けれども自分もまた、それを言えなかった。

「せめてオレには甘えてよ」

 よく思い出せば、氷室は今まで自分の願望を言ってくることはなかった。いつだっての気持ちを優先させていた。

「氷室先輩」

 は思った。どうして最初から、どうしてもっと早くそういう風に愛してくれなかったのか。どうしてもっと早くそういう風に彼を愛することが出来なかったのか。心の底から溢れるように生まれるのは、悔しさばかり。

 氷室は本音を言ってくれた。だったら自分も伝えなければいけない。今まで自分も同じように、言いたいことさえも言えなくて、ただ氷室のその優しさに甘えていただけなのだから。もう、その甘えからは卒業しなければいけない時だ。言いたいことが言えない関係など、恋人同士ではないのだから。

「私と別れて下さい」




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