煩わしいと感じていた着信音も、以前よりは少しだけ心地好いメロディーに感じるような気がする。けれど、そう感じてしまうこと自体がひどく鬱陶しい。この矛盾は一体どう拭えば良いか、その方法さえも見当がつかない。仕方がないので画面を開くと今ではもう見慣れた5文字、赤司征十郎。決して頻度は多くないが、先日久しぶりの再会を果たして以来、ある程度のペースで連絡が来るようになっていた。
 彼からたまに来る電話やメールは他愛もないことばかり。他愛もない、用事でも何でもないメールや電話といった類のものが好きではないはずなのに、割と答えている自分が少し信じられない。彼からのメールや電話のほとんどは「?」がつく疑問文だからだろうか。「何色が好き?」「食べ物は何が好き?」「どんな映画が好き?」「本は読む?」など、正直答えるのが面倒くさい質問ばかりである。けれど不思議と何故かちゃんと答えてしまう私がいるのだ。
 そして私と付き合っていたあの頃、彼は私のことを理解はしていても、何も知らなかったんだろうなぁと少し思った。

 ああ、今日も鬱陶しい電話の着信音が鳴り響く。表示されている名前を見て、電話に出るか出ないかを決めるなんて、いつから私はこういう人間になったのだろうか。しかし、今日ばかりはディスプレイに表示される名前が誰であろうと少し億劫である。怠い身体にぼやける世界。それでもこのうるさい音を鳴り止ませるには、電話に出るか電話の電源を切るか。どちらかしかない二択なのだ。


『もしもし?』
『…どうしたんだ、その声』


 ただでさえ美しくない私の声が濁っていることを、彼はすぐに見抜いたらしい。風邪を引いたであろう私は冷たい床に座りながら彼と話す。弱っている時に人が恋しくなるというのはこういうことだろうか。喉が悲鳴を上げるから喋りたくないはずなのに、誰かが近くにいるということを電話越しでも感じていたい。我が儘かもしれない、けれどそんな自分を止めることは出来ない。


『風邪引いたみたい』
『病院は行ったのか?薬は?』
『行ってない、飲んでない。どっちも嫌い』
『全く…それでは治るものも治らないだろう』
『寝てれば治るよ』
『自分をもっと大事にした方が良い』


 この彼の言葉の中に、一体どれほどの意味が含まれているか、今の私にはまだ分からなかった。

 時刻は20時。この時間にやっている病院なんてもうない。薬局はまだ辛うじて開いているだろうか。でも今の状態の身体に無理矢理命令をしてまで薬を買いに行きたいとは思わない。少し億劫なのである。彼の気遣ってくれる言葉はありがたいが私はこの言葉を、無視することにした。

 それから少しだけ会話をして、電話を切る。「お大事に」と言ってくれただけでも嬉しかった。こんな自分にも、心配してくれてる人がいるのだと感じる事が出来たから。そして更に20分後くらいだろうか。身体は相変わらず怠いが今度は口の中が寂しくなった。しかし、残念ながら冷蔵庫の中は空っぽ。カップラーメンやインスタントの類はあるがそういう気分ではない。何か冷たいもの、例えばフルーツとかゼリーとかそういう物を食べたい時に限って、何もない。ため息をひとりでつくと、着信音よりも響くインターホンの音が聞こえる。こんな時間にインターホンが鳴るなんて、ひとり暮らしの女には少しの恐怖心が生まれてしまう。幸いオートロックなのでカメラ越しに尋ねてきた人物を見ることが出来るが、今映ってるこの世界は熱のせいだろうか。


「えっ…赤司くん!?な、何で!?」
「やぁ。調子はどうだい?」
「っていうか何で私の家が…」
「開けてくれるよね?」


 言われるがまま、自分でも気づかずにロック解除のボタンを押していた。ドアが開いたことに満足したのか、彼はカメラに向かってひとつ笑みを置いていくと画面から消えた。おそらくエレベーターに乗ってまさにこの部屋へ来るつもりなのだろう。そしてそれはあっという間にやってきた。再びインターホンが鳴ると、不思議な感覚に襲われる。この扉一枚の向こう側に彼が、赤司くんがいるのだ。


「急に押しかけて悪かったね」
「どうしてここが分かったの?」
「前にタクシーで一緒だっただろう?」
「…ああ、赤司くんが送ってくれた時か」
「入っても?」
「風邪引いてるって言ったよね?」
「だから来たんだよ」


 微熱とは言え彼に風邪が移ってしまうことを懸念しているというのに、彼は全く気にすることもなく部屋へ入ってくる。幸い、部屋は先日掃除したばかりだし今日は帰ってきてからしばらく着替えずにそのままでいたため、みっともない状態や姿を見せずに済んだ。
 それにしても彼は何故急にこんなところへやってきたと言うのだろうか。黄瀬くんでさえ、この部屋に来たことがないというのに赤司くんは軽々とその境界線を越えて来る。どうして彼がここにいるだろう。どうして彼が私の心配をしてくれるのだろう。そんなたくさんの「どうして」に埋もれそうになりながら、せめてお茶でも出そうとするとやわらかく静止された。


「気にしないで良い。長居をするつもりはない」
「赤司くん、どうしてうちに?」
「様子を見に来たんだ。あとこれを渡しにね」
「わ、薬と…すごい、飲み物にゼリーに栄養補給系に色々入ってる」
のことだからこういう時ほど外に出ないだろうと思って」
「赤司くんって私のこと分かってるのか分かってないのか、よく分からない」


 昔は私のことを理解し過ぎていてこわいとさえ思ったのに。どうして、私のどうでも良いようなことは知らないくせに、私の心は昔も今も見透かす事が出来るなんて理解出来ない。もちろん純粋に嬉しい、ありがたい。けれど、それ以上に戸惑いの方が大きい。この感情に何て名前をつけてあげれば良いかさえも分からない不快感に襲われながら、笑うことも出来ないなんて。


「分かってるよ、以上にね」


 私以上って、意味が分からない。彼が一体いつ、私のことを知る時間があったというのだろうか。付き合っていた頃でさえ、そんなに長い時間一緒に過ごした覚えはない。数年ぶりに再会を果たした今だって、そんなに深い時間を共有してはいない。何より、私は彼のことが分からないというのにどうして彼は私のことを分かっていると言うのだろうか。いや、それ以前に私が私のことを理解していないのだろうか。


「昔、が寂しくてひとりで泣いてたことくらい知ってるよ」


 想定外の台詞に、自分自身の瞳孔が開いた。もちろん彼もそれは見逃さなかっただろう。それにしても何て 寂しそうに笑いながらそんな台詞を言うのか。寂しくて、なんて言うけれど自分の今の顔を見てみたら?と言い たくなるほどこちらの心が苦しい。私には今のその悲しい笑みをどうしてあげることも出来ない。出来るのは 、強がる演技をするだけ。泣いてない、泣いてなんかなかったから、どうかそんな寂しい笑みを向けないで。


「泣いてない。それにもし泣いてたとしたら、それを知ってて放置しておくなんてひどい男」


 皮肉たっぷりのこの言葉を、彼はどう捉えるだろうか。別に責めたいわけじゃない、責めてるわけじゃない 。じゃあどうしたいのか?それは分からない。分からないから距離を取りたくなってしまう。そうだ、私はた だの臆病者なのかもしれない。


「逃げていたのかもしれないな」
「・・・何から?」
「あの頃、夢中になりたかったすべてのものから」


 彼も臆病者だったというのだろうか。まさか、そんな。彼が夢中になりたかったものが一体どれほどあって、どんな思いだったかさえも知らないのに。


「僕にとってはが唯一甘えられる存在だった」
「赤司くんに甘えられた覚えなんて、」
「でも、あの頃の僕はを甘やかしてあげることが出来なかった」


 どうして今更そんなことを言ってくるのか。何をどうしたいのか。私の口からどんな言葉を待っているのだろうか。そんな、後悔みたいな言葉を聞きたいと思ったことなんて、一度もない。「そんなことないよ」と言う気は更々ない。けれど「そうだね」とも言いたくない。同意の言葉を言ってしまったら、自分の弱さを認めているように思われてしまうじゃない。甘えたい、なんて一言も彼に言っていないのだから。


「ところで、この前のことは考えてくれてるか?」
「何、この前の事って?」
「今付き合ってる男と分かれて、オレにした方が良いって話」
「え、あれ本気じゃないでしょ?」
「本気だよ」


 冗談だと思っていたから「そういう冗談言うんだね」と軽く言ったのに。本気と分かった途端、心臓が飛び跳ねたような気がした。このまま彼の言葉通り、黄瀬くんと別れて赤司くんと付き合うのか。それとも今のまま、黄瀬くんとの曖昧な関係を続けるのか。どっちが幸せになれるかなんて考えたことなかった。別に今の状態だって不満はない。ただ、不満はないのにどうしてこうも言葉が出て来ないのか。


「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「え?」
「風邪は引き始めが大事だからな。に無理をさせるのは本望じゃない」
「あ、りがとう」
「でも、真剣に考えて欲しい」


 滞在時間は30分もない。彼はそう言うと帰り支度を整え玄関に向かったので慌てて追いかけていく。あの頃より少し伸びた身長。後ろ姿までも立派な男の人。もし彼の言葉に甘えたら、私は自らこの背中に縋りついたりするようになるのだろうか。彼の手と自分の手を重ねたりするのだろうか。温もりを、感じることが、初めて出来るのだろうか。


「そうだ、ひとつだけ」
「何?」


 玄関のドアノブに手をかけようとした彼の手は、私の腕を掴んで少しだけ手繰り寄せた。瞬時に近くなった彼と私の距離に、驚き以外の何もない。私の耳のすぐ近くに彼の口元。こんな至急距離、彼と経験した記憶なんて今となってはもう思い出せない。もし、もし今彼に抱きしめられたりキスをされたら。どちらも初めてではないはずなのに、私はきっと何も経験したことがない少女のような反応をしてしまうかもしれない。それか或は、人形のように何の感情も抱かないか。何もされていない今では分からない。


「今は何もしないよ。でも、」


 耳元で囁くその声がまるで凶器のように私をえぐり始める。何もされていないのに、金縛りにあったかのように身体が動かない。掴まれている腕が熱い。そこから私の心を侵食してくるような彼の想い。不愉快ではない、けれど自分の中で生じている躊躇いが不愉快なのだ。


「今のオレならに寂しい思いはさせないと誓う」


 だから寂しいなんて一言も言ってないのに。勝手に決めつけないで、と反論の言葉さえも出ないなんて、私はやっぱり弱い女なのだろうか。彼はそれだけ言うと「また連絡する。体調が良くない時に悪かったね、お大事に」とまたひとつ笑みをおいて去って行った。オートロックを解除する時にも感じたが、その置き土産のように残していく余韻がとても、苦しい。胸が高鳴るからか、胸が締め付けられるからか、そのどちらかなのかもまだ分からないけれど。
 微熱だった体温が上昇してしまったのが彼のせいだとは思いたくない。








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