期待していない着信ランプが光るとつい手を伸ばしてしまう自分に、赤司はひとり気づいていた。おまけに短いメッセージの中に潜んでいる想いを探ることさえも楽しいだなんて、そう感じるようになったのは一体いつからだったのだろう。けれどその発信主である彼女、は理解出来ないときっと不機嫌になるに違いない。何せ、彼女は自分のことを理解されるのが嫌で仕方ないのだから。
 赤司は初めてを見た時のことを今でも覚えている。初めてと話した時のことも鮮明に覚えている。同級生より少しだけ大人びていたその雰囲気、そして今まで出会ったことのない儚さを持っていたは、赤司にとっては衝撃的だった。


「まさかが本当に来てくれるとは思わなかったよ」
「赤司くんが言ったくせに」


 買物袋を持ってやって来たは、以前とは少しだけ雰囲気が変わったような気がした。彼女が手に持っていた荷物を赤司は自然と優しく奪うように持つと、中へ入るよう促す。男の部屋にやって来たとは思えないほど の美しい所作で靴を並べるが、赤司にとっては印象的だった。けれども「お邪魔します」と堅い言葉を紡ぐところは相変わらずだろうか。その言葉が高い壁のように感じて不愉快な気持ちになる。今までなら壁なんてものは何の躊躇いもなく壊してきたというのに、今は様子を見ながらじゃないと何も出来ないなんて。恋愛というものはつくづく人を混乱させる何物でもないと感じさせられた。


「“一応”恋人がいるのにひとりで男の部屋にやって来るなんて、意外だったな」
「そう?」
「それともオレは男として見られていないということか?」
「今日はあくまでお礼。それに、」


 先日体調を崩したがその後も気になり、赤司は彼女の家へ行ったあと一度だけ連絡を入れていた。その5日後くらいだろうか。「もう大丈夫」という言葉と共に世話になったお礼をさせて欲しいという申し出があった。彼女らしい、と言えば彼女らしい。借りを作りたくなかったのだろう。甘えたままでいたくなかったのだろう。建前上は「気にしないで良い」と告げた赤司だが、頑固とも言える意志の固さを持っている彼女が引き下がるわけもないので、早々に自分が折れることにした。
 問題のお礼、であるが何でも良いと言うので「家に来て何か料理を作って欲しい」と伝えた。赤司自身、ある程度のものは自分で作れるため特に不便を感じてはいないが、外だと彼女に気を遣わせてしまうということを考慮し、賭けに近いものはあるが自分の住んでいるマンションへ呼ぶことにした。断られると思っていた返答は意外にも簡単に了承の言葉を聞くことが出来たが、もちろん何かをしようという気は今のところない。


「赤司くんがそういう人じゃないって分かってるから」


 何より、ここまで信用されてしまっては逆に何も出来ない。それを彼女は分かっているのだろう。境界線を自ら引き、すべてを含ませ笑ったの笑みが赤司には魅力的で仕方なかった。
 は部屋の中へ入ると、くるっと部屋を一度だけ見渡し「広っ」とだけ呟いた。部屋の中は無駄な物が一切ないせいもあり、より一層広い空間だと感じさせられる。センスの良いインテリアは彼が自身で選んでいるのだろうか。街で奏でられる騒音とはほど遠い、静かでゆっくりとした時が流れるような部屋だった。けれどフローリングの床は冷たい。足から伝わるこの冷たさが、何もかもを凍らせてしまいそう。だからリビングには質の良さそうな絨毯が置かれているのだろう。この冷たさを誤魔化すために。


「あともうひとつ。“一応”なその恋人、もういないよ」


 案内されたキッチンも非常にキレイで、生活感をあまり感じさせない程である。しかし、ある程度のキッチン道具などが揃っているところを見ると、それなりに彼も料理をするのだろう。はそんなことをぼんやりと思いながら、買物袋に入っている材料を次々と取り出す。赤司はそんな彼女をただ見つめながら、彼女から発される言葉を静かに聞いていた。


「そうか」
「言っておくけど、赤司くんに色々言われたからじゃないから」
「分かってるよ」


 その言葉に、は少しだけ救われたような気持ちになった。何故かは彼女自身理解してはいないが、胸の中でつっかえていた何かが少し取れたような、そんな感覚。シンクで手を洗うのと同時に、そのつっかえも洗い流されたような気がして、しばらく水を止めることが出来なかった。このままでは水が無駄になってしまう。おまけに自分の家のキッチンじゃない。なおさら早く止めなきゃいけないのになかなか動けない。けれど、それをすぐ止めてくれたのは赤司だった。


「自分で、決めたんだろう。はそういう人間だ」


 ―ありがとう、がそう呟いた言葉は水を止めてくれたことに対してなのか、自分を理解してくれた事に対してなのか。赤司にとってそんなことはどちらでも良かった。自分に「ありがとう」のこのたった5文字を彼女が言ってくれるだけで、それだけで嬉しいのだ。

 赤司にとってはがそこにいるというだけで、まな板の上でリズム良く鳴る音も、火がついた時に感じた熱も、香ってくる美味しそうなニオイも、すべてが輝いて眩しく感じる。こんな当たり前のようで当たり前じゃないこの光景を、今日だけでなくまた見ることが出来たらどんなに幸せの余韻に浸れるだろうか。そんなことをぼんやりと思いながら、の姿を見つめる。

 あっという間に出された料理はどれも赤司好みのものであった。味つけも文句なし。「がこんなに料理上手だったなんて」という褒め言葉に対しても、は淡々と「そんなことないよ」と答え喜ぶことはない。けれど、とても上品に箸を使いキレイに食べる赤司を見て悪い気はしなかった。
 ごちそうさま、を合図に二人でキッチンに立つ。「後片付けくらいオレも手伝うよ」と言う赤司の申し出をは素直に受け、ふたりで洗い物をするこの光景もまた、この部屋で流れる穏やかな時間のひとつである。が皿を洗い、それを赤司が拭くという普通の効率の良い作業である。けれど白い食器に滴る水を拭う赤司のその動作は、まるで白い肌に滑り落ちる涙を拭うようでもあった。


「じゃあ、これからは遠慮せずにいっても良いのかな」
「何を?っていうか、赤司くんが遠慮することなんてあるの?」
「相変わらずオレのことをよく分かっているね」


 ふたりで並ぶとよく分かる身長差。それはふたりが会っていなかった年月を物語っているようだ。けれど、距離は近い。数年前のあの時よりも、何の関係もない今の方が近いということに赤司もも気づいているのだろうか。


「言っておくけど、だからといって赤司くんと付き合う気には」
「なるよ」


 洗ったお皿を渡す時には赤司の方を向いて、釘を刺そうと思った。しかし、すべてを言い終える前に彼の言葉がそれを阻んだ。おかげではすべてを言うことが出来ない。それも肝心な言葉を、だ。そこには「オレがその気にさせてみせる」という自信に満ちた言葉が紡がれてもいないのに聞こえるようだった。そのすべてを遮る揺るぎのない言葉に、真実と意志の強さを孕ませる瞳。耳も視界も奪われた彼女はせめて心だけはと必死で抗う。彼にではない。自分に、だ。


「何で?何で、そんなに私のこと」


 当たり前のようにが抱く疑問のひとつ。どうして彼みたいな人間がこんなにも自分を誘惑してくるのだろうかということ。例えばもし、以前の自分のようにただ温もりが欲しいだけなら、彼の周りには他にも素敵な女性はたくさんいるはず。何故、今自分なのか。連絡を何年も取らずにいたのに何故、今更そんなことを言うのか。理由が見つからないのだ。だから踏み出せない。その差し出された手を素直に掴むことなんて出来ない。戸惑いと躊躇いが彼女を妨げる。


のことが好きだからに決まってるじゃないか」


 けれど、赤司はその戸惑いや躊躇いさえも奪い取るように、の心にゆっくりと確実に踏み込もうとする。彼女のことになれば赤司自身にも躊躇いというものは確かに存在する。に完全に拒絶されてしまったら、という懸念があるからだ。彼は普段、何事に対しても絶対の自信を持っている。それらには裏付けされた自身の才能や努力が存在しているから。けれどの心だけは違う。そんなものでどうにかなるほど、簡単に手に入れることは出来ない。けれど、少しずつなら不器用になりそうな今でも出来る。
 付き合いたいと述べる当たり前の理由の「好きだから」という言葉にさえ、は眩暈がしてお皿を落としそうになった。しかし、それは赤司の抜群の反射神経によって防がれる。どんなに普段から冷静で落ち着いていても、彼女もただの女なのだ。そんな真っ直ぐな言葉を嘘偽りもないような目で言われれば、時が止まったように感じてしまうのも無理はない。結局、赤司もも周りにいる人間と何ら変わりない、どこにでもいる普通の人間なのである。


「…自分から言っておいて悪いが、今日はそろそろ帰ってもらっても良いかな」
「え、うん。でも片付け、」
「これ以上一緒にいたら、に何かしてしまいそうになる」
「え?」
がそれでも良いなら構わないが」


 またもや流していた水を止めたのは赤司だった。自分の目の前に、捲くられて顕わになった赤司の腕が交差するかのように近づいただけで、彼女の胸の高鳴りは尋常じゃない。せめて水が流れていたら、その音で誤魔化せたというのに、今はそれさえも叶わない。


「良くない」
「だろうね」


 それでも、それでもここで流されてしまっては以前の自分と何も変わらない。いつからか甘えることを避け、甘えることに怯えてしまったは、皮肉にもその想いによって赤司の甘い誘惑を遮断した。しかし、赤司にとってこのくらいのことは想定内である。弱さでもあり強さでもある彼女のその心自体が、魅力的なのだから。
 その後のは少しでも早くここから脱出したかった。赤司の中にいるようなこの空間から一刻も早く。玄関のドアノブに手をかければ騒音にまみれた街に溶け込める。そしたら、今の自分も隠すことが出来る。しかし、赤司には気づかれないように急ぎ足で外へ向かい「お邪魔しました」と後ろ姿で述べる彼女を簡単に逃がすほど、赤司は優しくはない。彼女が外へ出ていく寸前、掴んだ腕は細くて折れてしまいそうな程だったが、赤司も離すわけにはいかない。驚き振り向いたは、以前赤司が自分の家に来た時のことを思い出した。耳元で伝えられた言葉は今夜も結局彼女を逃がさない。


「来週の土曜日、二人でどこか行こう」


 これではまた土曜日まで彼のことを考えてしまうことになる。けれど否定する理由が見つからないので素直に頷いたに、赤司は微笑みをながらようやくその腕を離した。掴まれた彼女のその腕の温度は次に会う時までに残っているのだろうか。








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