信号が赤に変わる瞬間、このまま永遠に赤のままであり続ければ良いなんて自分にしては下らないことを考えた。そうなれば彼女の視界はすべて赤で埋めつくされ、立ち止まった彼女を掴まえることが出来るのに。けれど、現実はそうもいかない。手を差し出しても伸ばしても、触れることが出来ない。結局、愛しい女の前では何もすることが出来ない。今まで経験したことがないその戸惑いや感情は、不愉快でもあり愉快でもあった。


「赤司くん、黄瀬くんと知り合いだったの?」
「さっき言った通りだが」
「前に黄瀬くん見掛けた時、教えてくれれば良かったのに」
「…あの時は後ろ姿だっただろう?確証が持てなかったんだ」
「そう…」


 彼女、は勘が鋭い人間であるが故に、こちらが意図していることの何かしらに気づいているのかもしれない。そしてあえて何も聞いてこないのだろう。彼女のそんなところは褒められた部分でもあるのかもしれないが、少し寂しいようにも感じる。あの頃と、何も変わっていないのだと―
 黄瀬が彼女の相手だと分かった瞬間、脳裏を過ぎったのはひとつの動揺。それはゆっくりと広がる波紋のようにオレの心を震わせた。水面に投げ込まれたのは硝子の破片だろうか。触れればきっと傷がつく。彼女はまたひとりで泣いているのではないかという不安だった。


「送ってくれてありがとう」
「あ、いや」
「珍しい、赤司くんが少しボーっとしてるなんて」


 そういえば、彼女に初めて惹かれたのはいつだっただろうか。まだ高校生の頃、同じクラスだった彼女はあの頃から同級生より少し大人びている存在だった。いや、大人のように見せようと背伸びしていたその姿が印象的だった。それでも今に比べたら無邪気な笑顔も多かったように思う。そんな雰囲気が気になって、少しずつ会話を交わすようになって、気づいたら彼女のことを考えている自分がいた。けど、付き合う前に彼女から言われたあの一言が何よりのきっかけだった。この一言は、オレの世界を変えた。言われたあの日から忘れたことはない。そんな風に自分を理解してくれた人はが初めてだった。彼女に初めて想いを告げた時、彼女は驚いた表情をしていたがそのあとすぐに少女のように笑った、その時の彼女の顔は、あれから何年経った今でも忘れられない。


「また連絡するよ」


 けれど、そんな彼女の笑顔を見れたのはごく僅かだった。
 あの頃はまだ子供だったが為に、何かを犠牲にしないと自分を守ることが出来なかったのかもしれない。いや、それは言い訳になるだろう。決して余裕がなかったわけではない。彼女のことだって誰よりも、彼女よりも理解していた。けれど、それが裏目に出た。彼女にだって苦しい時や寂しい時があったはず。そしてそんなこと、当然気づいていながら傍にいないということを選んだ。彼女の表の中では正解だったとしても、裏では不正解だったいうことに目を閉じていた。どうすることが正しい答えだったのか、正解はきっと存在していないだろう。けど、もしあの時無駄な枷で覆われている彼女の気持ちを無視して、自分の下らない理性を排除して、ただ傍にいるという本能を優先させていたら違う未来が描かれていたのかもしれない。彼女はそんなことをした覚えはないと言うだろうが、微笑みながらオレの話を聞いてくれた時間が心地好かった。その時だけは全てを忘れてひとりの高校生になることが出来たような気がするというのに、一体あの時のオレは何をしていたのだろうか。その時、初めて自分を責めたような気がするのが、答えということだろうか。
 結局、彼女は予想通り何も言わなかった。我が儘どころか何かしらの欲求を聞いたことなんて、一度もない。「会いたい」とも「寂しい」とも言わない。逆に、彼女の中に赤司征十郎という存在が生きているのかどうか不思議なくらい。
 そんなある日、卒業式の前くらいだろうか。予想通りと言ってしまえば救いようがないが、彼女から関係の終幕を言葉を告げられた。どちらにしろお互いの進路が分かれるという自然な良いきっかけだったのかもしれない。その時の彼女も弱音を吐いたり泣いたりすることはなかった。けど、彼女の表情はまだ咲いてもいない桜を散らせてしまいそうなほど、美しくもあり儚かった。

 自分を初めて理解してくれた存在。理解してくれる人がいるということが、どれだけ支えになるか。皮肉にもそれに気づいた時、はもう手の届くところにはいなかった。


「赤司くん、私」


 あれから何年経っただろう。久々に東京に戻り電話帳を整理していると懐かしい名前がひとつ。もしかしたらもう番号もアドレスも変わっているかもしれない。意味なんて無いのかもしれない。けれど「後悔」なんてそんな言葉、自分には似合わない。気づいた時には彼女へ連絡をしていた。
 今の彼女は予想通り美しい女性になっていた。しかし、相変わらず寂しそうな表情をしている。卒業前のあの時と何ら変わりない。もしかしたら、今も何かを我慢して生きているのだろうか。あの時と同じように、ひとりで泣いているのだろうか。自分を必死に誤魔化しているのだろうか。彼女はあの頃のオレとの付き合いのせいで、覚えなくてもいい無駄な感情を覚えて、今日もひとり泣いているのだろう。


「オレはこう見えて諦めの悪い男なんだ」


 そんな彼女を純粋に救ってあげたいと思った。また昔のような屈託のない素直な笑顔が見たい。彼女を幸せにしてあげたい、彼女には幸せになってほしい、そう思っただけだ。



△▼△



 珍しい人物から突然連絡が来た。しかし、珍しいというだけで驚きはしない。こうなることは何となく予想していたからだ。あの時の黄瀬の表情を見れば、それは容易いこと。何かを言いたそうだった黄瀬のあの表情は、六本木の夜に沈みそうな程だったのだから。
 黄瀬に指定された青山のバーまで行くと、カウンターにひとり目立つ男がいる。けど、そこにいたのは自分と重なるような後ろ姿。とても世間を騒がすような男には感じない。自分と同じ、愛に不器用な男がひとり。しかし、哀愁だけではない。


「遅くなってすまない」
「こっちこそ来てもらってありがとっス」
「それは構わないが」


 適当に頼んだ酒は、どうやら心を潤すほどの力は持っていないようだ。美味いと感じない酒を飲むのは非常に不愉快である。それでも何かを口の中に入れ、喉だけでも潤しておかないと渇いてしまう。どちらが発言をするわけでもなく、数秒の間の沈黙を破ったのは黄瀬だった。


って、何も言わないんスよね」


 核心には触れないが、核心の人物の話題。寂しそうな笑顔で酒を見つめながら話す黄瀬の横顔はどこかで見覚えがある。けれど、それが何かを思い出すのはひどく躊躇われた為、酒を流し混んで誤魔化すことにした。そうすれば喉を通って心も少しは潤うかもしれない。自分を誤魔化すなんて、らしくないということは百も承知だ。


は、昔も今も自分の欲だとか弱いところは一切、誰にも見せない」


 それはつまり自分にも、ということ。結局、彼女にとっては黄瀬も自分も特別な存在というわけではないのだろう。彼女の中に潜んでいる、不必要な枷がどこかへ退かない限り、きっと本当の姿を見せてくれる日なんてやって来ない。


「それって、なんか寂しいっスよね」
「お前には他にも良い人が複数名いるんだろう、何故そんなににこだわる?」
「いないっスよ、今はもう」
「…そうか」
「あの日、六本木でふたりに会った時に全員切ったんスよ」
「何故だ?」
「オレにもわかんないっス」
「今更だな」
「本当そうっスよね」


 いっそ責めてくれたら楽だったのに。自身を嘲笑うかのようにそう呟いた黄瀬の言葉は空気に消えていく。かける言葉なんて、無い。それが黄瀬の覚悟であり、決意であり、答えだということが理解出来たからだ。今日感じた違和感のひとつでもある黄瀬の雰囲気。僅かではあるが、との関係が終わったというのにまだ輝きが残っている。いや、残っているのではない。生まれた、と言った方が正しいか。


「俺、今まで赤司っちより優れてるとこがあるのかとか思ったことない。いや、考えすらしたことがなかったのかもしれない」


 グラスがテーブルに置かれた瞬間、静かに響いた音が蕾だった花をゆっくりと開かせる。店内で流されているBGMは、まるで黄瀬の言葉と決意を活かすかのような引き立て役になっている。そのせいだろうか、やたらと黄瀬の言葉が全身を貫くのは。


「でも、あきらめらんない。は」


 どうして黄瀬も彼女でないと駄目なのか。そんなことはどうでも良かった。ただひとつ言えるのは、愛を知らずに生きてきた人間が愛に気づいた時、ようやく愛を語るのだということだ。不思議と不快感は一切ない。黄瀬が何を言おうと何を想おうと何をしようと関係ない。ただ、ようやく見つけた愛を掴みたいのは黄瀬だけじゃない。


「別に諦めなくて良い」
「え?」
「決めるのはだろう」


 今思うのはただ、今宵も彼女はひとりで身体を震わせて、何かに必死で抗っているのではないかということ。その細い身体で、考えなくても良い他人への思いを優先させて悩み苦しんでいるのではないかということ。いつだって、思い浮かぶのは彼女のそんな姿。


「赤司っちってそういうこと言う人だったんスね」
「そういうこと?どういう意味だ」


 黄瀬は驚いた顔をしたあと、ひとりで勝手に納得していた。確かに意外だと思われても仕方がない。何せの前では自分だって所詮ただの男になってしまうのだから。
 脳裏でしか見ることが出来ない彼女の花のような笑顔をもう一度この愛で咲かせてみせる。改めてそう決意したこの夜に瞼を閉じて、覚悟をひとつ決めた。








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