03.Autumn
何もかもを塗りつぶしたような深い夜に、悲しくなるほど美しい月が燦爛と浮かぶ秋がやってきた。彼女と過ごすこの季節は、初めてだ。

あの夏祭り以降、気づいたら昔と同じように週に一回ほどのペースで彼女の喫茶店に足を運ぶようになっていた。最初の頃は、初めて訪れるその場所や光景に新鮮さを感じていたが、今では彼女の店へ行く途中の景色さえも穏やかに映る。駅から店へと続く只のアスファルトの道は、そこだけ太陽に照らされていると思う程、清々しく明るい。彼女の喫茶店が休みの日には、一緒に映画に行ったり他の喫茶店やカフェに足を運んだりするようにもなった。まるで恋人同士のような雰囲気だが、勿論付き合ってはいない。そもそも、彼女にはそういう対象で見られた事がないように思う。ただ、自分が彼女に会いたいから訪れているというだけでは、可笑しいだろうか。
「わぁ、キレイ」
「ちょうど見頃の時期に来られたみたいだね」
木々に宿る紅葉が街を暖色で彩り始める頃、彼女を誘って鎌倉の方までドライブにやってきた。もう大人だと言うのに、車の速度で変わりゆく景色を見ながら時折無邪気な子どものように表情を変える彼女に、自然とこちらが笑顔になってしまう。然し、心を読まれてるのかと思う程のタイミングで飲み物や彼女が持ってきてくれた小さなお菓子を差し出してくれるので、虚しい勘違いをしてしまいそうにもなった。そんな勘違いを外に逃がしたくなって、窓を少し開けたことを彼女は知らない。
由緒ある寺をより美しく見せる紅葉のグラデーションは目を奪われるほど鮮やかで、観光客も多く見えた。古い建物である寺やその周囲は段差も激しく、そっと手を差し出すと、彼女は遠慮がちではあるものの、綿のようにふわりと華奢な手を重ねてくれた。初めて触れた彼女の手は、小さくて冷たい。水のように純粋で、氷のように残酷だ。数年前なら、いや一ヶ月前なら触れる勇気も自信も無かっただろう。漸く、彼女のひとつの「温度」を知ることが出来たようにも感じる。「ありがとう」とやわらかく微笑む彼女は、何処か脆そうだ。それはこの秋の空気がそう見せるのか、彼女と過ごす秋が初めてだからか。それともー。
そして、彼女の左手に輝いていた指輪は、いつの間にか消えていた。
△▼△
それからしばらく車を走らせ、湘南の海岸沿いにある公園のような場所にやってきた。秋の海は既に少し冷たい空気が存在しており、海の匂いと秋の香りが混沌としている。波の音が刺すように耳殻を響かせ、やがて海を見渡せる高台のベンチに二人で座った。先程までの雑踏が嘘みたいに人がいない。まるで、この世には海と自分たちの二人しかいないという幻想を見せてくれるのに充分な程だ。
こんなにも自然に囲まれた中で侘しく存在している自販機に手を伸ばし、人工的に光るボタンを押す。缶コーヒーのプルタブを開けて彼女に渡すと、両手で受け取りながら湯気と同じ、またもや消え入りそうな笑顔に遭遇した。自分の分の缶コーヒーを開けるのが躊躇われた程だ。
「もし、迷惑だったら言ってくれて構わない」
ずっと疑問に思っていた。左手の薬指に指輪をしていたくらいだ。恋人がいるどころか、既に結婚している可能性だって否めない。もしそうなら自分がしている事は世間からは決して認められない、許されない、眉を潜められるような事だろう。ただ、今までの彼女から「異性」の存在を感じたことが無いのも事実だ。そのような話を聞いたことが無い、いや聞こうとしないようにしていただけかもしれないが。
彼女の左手を一瞥すると、何も言わずともその視線だけですべてを悟ってくれたらしい。彼女には聡明な部分が昔からある。人の表情や感情を読むのが上手いのかもしれない。けれど、きっと他人の事ばかり優先して、自分の感情を理解するのは上手くないのだろう。
「ああ、これはね一年経ったから外したの」
「一年?」
「婚約していた彼が亡くなって、昨日で一年経ったから」
風が、強い。近くの海は荒ぶるような波を立てる。波の音に消えてしまいそうなのに、彼女の声はオレの鼓膜にも脳髄にも心臓にもやたらと響いた。聞きたいことは沢山ある。然し、彼女の心境を考えると数々の言葉が心の中で浮遊してしまい、どの言葉を紡ぐのが正解なのか、解らなかった。
「そう、だったのか」
「ああ、ごめんね。なんか暗い話になっちゃって。それに…」
「それに?」
「赤司くんには、きっと私が突然消えたことを先に話さないといけないよね」
どこか遠くを見ているようで、この湘南の海に溺れてしまいそうな彼女の横顔が、淡々と過去を語り始める。
後期が始まる少し前に、あの喫茶店のバイトを辞めたらしい。当時、彼女が辞めたとオレが知ったのは喫茶店のマスターが教えてくれたからだった。それ以後、キャンパスでも彼女の姿を見掛けることが一切なかった。たまに彼女に似た学生を見つけ、近づいてみた事があるが、まるで幻想でも見たかのように人違いだった。一度連絡を試みた事もあるが、彼女からの返信はなく、共通の友人がいたわけでもなかったので、この頃を境に彼女の大学生活は一切分からなくなっていた。然し、事故や病気と言った噂も聞かず、構内は広いキャンパスだった為、遭遇しないことにあまり疑問を持たないようにした。きっと他に掛け持ちしていたバイトが忙しくなったのだろうと、勝手な憶測を働かせながらオレは以後の大学生活を無難に終えた。もしかしたら、その出来事を切欠に彼女への想いを無理矢理忘れようとしたのかもしれない。皮肉なことに、逆に忘れることは出来なかったのだが。そして、彼女はそれからしばらくして、大学を辞めたと言う。
「母が病気で亡くなって、しばらく故郷にいたの」
彼女には父親と言う存在が幼い頃からいなかったらしく、母親は彼女の上京に最後まで反対していたらしい。それはどうやら心配からくるものだったらしいが、当時はそんなことには気づけなかったと彼女は言う。喧嘩別れのように故郷を飛び出した彼女は、普通の学生が楽しむ自由を削り、ひたすら懸命にバイトをしながら大学に通った。そもそも、彼女がわざわざあの大学を選んで必死に勉強をしていたのには彼女なりの理由があったらしい。彼女の亡くなった両親は昔、二人で喫茶店を経営していたらしいが、父親が亡くなったあと様々な事情により、泣く泣くその店を閉店させる道を選んだと言う。しばらくは母親がひとりで頑張っていたらしいが、経済的な理由と言うよりは、父との想い出が詰まったあの店にいるのが辛かったので無いかと彼女は語る。それ故、彼女は大学を出て安定した企業へ就職し、お金を貯め、故郷に再び喫茶店を開き、母親と二人でお店をやるという夢を抱くようになった。然し、その夢は10代のうちに儚くも無となり消えてしまう。
兄弟や親戚はおらず、たったひとり残された彼女にはやらなければいけないことがたくさんあった。きっと精神的なものが大きかったのだろう。手続きにも追われ、気づいたら一ヶ月ほど経っていたそうだ。その間、勿論学校へは行けず、バイトへも行けず、ただ無気力に殺伐と時間が過ぎていった。誰にも頼る事が出来ず、天涯孤独となってしまった彼女の空虚感は計り知れない。
「単位も結構落としちゃって、どうしようかなって思ったんだけどリセットすることにしたの」
日本国内でも偏差値が高い大学であった為、休んでいる間のブランクは大きかった。その後、彼女はまたこちらへ戻っては来たがしばらくバイト漬けの日々を送り、母が残してくれたお金の一部で後々役に立つかもしれないと、調理の専門学校に通ったと言う。おそらく、心のどこかで喫茶店の夢を捨て切れなかったのだろう。
「赤司くん、一回連絡くれたよね?今更だけど返事出来なくてごめん」
「いや、そんな状況になってるとは知らず、すまなかった」
「…どうして、赤司くんが謝るの?」
ふわふわと消えそうな笑顔の彼女を、それ以上見ることが出来なかった。彼女の言うとおりだ。彼女はきっとそんなことを求めているわけではないのに、何も出来なかった自分に勝手に悲壮感を感じているだけに過ぎない。自己満足を得ようと出た卑怯で無意味な、愛しいと思う人を救うことすら叶わない無力な言葉。
時間によって生まれてしまった空白を埋めるかのように、彼女は続きをゆっくり語り始める。
母親が亡くなり、専門学校とバイトの生活にも落ち着いてきた頃に出逢ったのが、今は亡き婚約者だったらしい。二十歳の頃、別の喫茶店でバイトをしていた彼女は、客だった5才ほど年上のサラリーマン男性と恋に落ちた。彼女が過去のこと、母親のこと、夢の事を話すと、婚約者はすべてを理解し、彼女の夢を一緒に実現させようと言ってくれた。そして彼女が25才の時、彼は仕事を辞め、二人でお金を出し、小さいけれど温もりに満ちた喫茶店をオープンさせることになる。店を出すと決めてからは目まぐるしい程に忙しくなり、お互いあまり「結婚」という意識も強くなかったからか、それから暫くしてプロポーズをされ承諾したと言う。お店の開店記念の日と同じ日に入籍をしようとしていたらしいが、そんなある日。奇しくも、彼女の母親と同じ病気が婚約者に見つかった。そして、その半年後には還らぬ人となってしまったらしい。まるで小説や映画のような激動の展開の中、彼女は生きてきた。
「彼、最期に『俺のことは忘れて他の人と幸せになってくれたら、それが俺の幸せだ』なんて言ってたけど、忘れられるわけ、ない、のにね」
泣いていない、彼女は涙を流してはいない。然し、声は空気に浸透しながら泣いていたように感じた。
婚約者の意思を尊重させるために指輪を外したのだと言うが、きっと動作は単純でも、その心境は心臓を鷲掴みにされるほど、震えていたことだろう。再会した時に感じた、泡沫のような雰囲気は、彼女の過去が生み出したものだったのか。
「辛いことを話させてしまったね」
「ううん。赤司くんには、話したかったから。聞いてくれてありがとう」
この海の波に掻き消されてしまいそうな程の彼女の笑顔は、またしても何処か悲しげだ。冷めたコーヒーの缶を不意に強く握りたくなった。そうか、昔も今も、結局何も出来ない自分自身が、惨めなのか。行き場の無い想いが缶を少し凹ました。春に彼女と再会した時、以前とは比べ物にならないほど眩しいと感じたのは、彼女が幾つかの悲しい過去を乗り越えてきたからかもしれない。
海に映える夕焼けはひどく眩しくて、思わず瞼を閉じたくなった。キレイ、と呟いた彼女の睫毛は繊細に揺れており、その横顔が夕陽よりも眩しく感じる。
涙が、出そうになった。
△▼△
夜の海岸付近は肌を震わせる。車に戻り、その後は他愛も無い話を少し繰り広げ、いつもと変わらない空気をお互い纏いながら彼女を家まで送り届けた。ひとりになった車内には、未だに彼女の温もりが残っているような気がして、締めつけられるように胸が苦しい。
そして、冬の訪れを知るように、いずれやってくる泡雪の果てに気づいてしまった。