04.Winter

 東京では滅多に降らない雪が、今見えている世界を少しだけ幻想的にさせた。雪と重なるような白い息が夜空へと吸い込まれ、見えなくなる。掌に落ちた粉雪はひどく繊細で、躊躇うことなく、一瞬で消えてしまった。







 彼女の過去をすべて聞いてから数か月の時が経った。色彩鮮やかだった葉たちは風に乗ってどこかへと去っていき、肌寒そうな木々たちが孤独感を彷彿とさせる。秋だった季節は冬へと姿を変えたが、オレたち二人の関係は何も変わらなかった。距離が開くわけでもなく、狭まるわけでもない。ただ、以前より彼女と過ごす時間は増えように思う。他愛も無い話もする時間も、会話無くただ同じ空間に一緒にいる時間も、どちらも清々しい森の中にいるような錯覚を覚えるほど、穏やかなひとときだ。愚かにも、この時間をこの幸せを壊したくないと思った。然し、同時にこのままで良いのかと疑問を抱いたのも事実だ。

 そんなある日、彼女を一泊二日の旅行に誘ってみた。下心が無いと言えば嘘になるかもしれないが、ほとんど無いに等しいと言っても過言では無い。ただ純粋に、彼女と一緒に長い時間を過ごしてみたかった。恋人でも何でもない異性にそんな誘いを受けて承諾してくれるとは思っていなかったが、彼女は朗らかな笑顔で「いいよ」と言ってくれた。良くも悪くも友人として見てくれているのだろう。それが嬉しくもあり、哀しいと言ったら些か欲張りだろうか。


「何だか旅行ってワクワクしちゃう」
「ああ、そうだね」
「赤司くんでもワクワクしたりするの?」
「もちろん。楽しみで仕方ないよ」


 雪がどのくらい降るのか分からず車では大変だからと彼女が気遣ってくれたので、新宿駅からロマンスカーに乗り、映り変わる景色を眺めながら箱根を目指した。新宿の高層ビルが多く存在している灰色の世界から、徐々に安らぎを与えてくれる緑が視界に入る。旅をしているのだと実感出来る瞬間のひとつだ。
 箱根に着くと、清々しい青空の下では白い雪がアスファルトを覆っている。ほとんどの道は除雪されているが、まだ薄く残っている雪の上を歩くとザクザクと雪を踏みしめる音がした。転ばないようにと自然に差し出してしまった手は流れるように自然と重ねられ、躊躇いを抱いていた頃の面影はどちらにも存在していなかった。


「箱根って初めて来たかも」
「オレも箱根は数年ぶりかもしれないな」


 出張はともかく、旅行という旅行は久しぶりかもしれない。解放感に溢れる非日常な時間の過ごし方は決して嫌いでは無い。隣に彼女がいるなら尚更だ。彼女は一体どういうつもりで今日一緒に来てくれたのだろう。相変わらずこの雪のように白い肌だが、その双眸は以前より僅かに温かみを感じるような気もした。
 箱根湯本駅は多くの土産屋で賑わっており、人々は此処から様々な観光地へと向かう。箱根には多くの美術館や山、湖などの自然もある。ロマンスカーに乗ってる道中、観光雑誌を眺めながら彼女が行きたいと言っていた彫刻で有名な美術館を目指すため、箱根登山鉄道に乗った。沿線沿いの他の観光箇所もいくつか周り、時間の経過を全く感じることなく日が暮れ始めた。一日の終わりが近づくことを知らせる鮮明な夕焼けが、この世界を飲み込んでいく。箱根には別荘もあるが、それでは彼女が寛げないかもしれないと普通の宿に宿泊をすることにした。


「えっ…すごい!素敵なところだね」
「ああ、偶然部屋に空きが出たそうでね」


 森に囲まれた隠れ家的なこの宿は、部屋数は少ないがどの部屋もクオリティが高い。和と洋を兼ね備えた部屋の大きな窓からは箱根の空と緑を望むことが出来る。一面に景色が映るガラスの窓に向かって用意された漆黒の革のソファーと純白の二つのベッドは、特別に発注された外国製のものらしい。部屋の中にいるだけで、穏やかな世界にタイムスリップしたかのような錯覚を覚えるほど、居心地が良い。彼女も気に入ってくれたようで、宿の食事も風呂も楽しんでいたようだ。




△▼△



 黒いソファーに座りながら彼女とゆっくり過ごしていたところで、仕事の急な電話が入ってしまい一旦部屋を出た。暫くして戻ると、何も見えない夜が映った窓をひとり立って見つめている彼女がいた。もうこの時間、それにこの立地だ。ガラスには黒しか映されておらず、彼女の姿が反射で映っているだけだ。


「…何を見ているんだ?」
「赤司くん、私」


 窓に映しだされた黒に、浴衣からのぞく彼女の白い首筋のコントラストが美しい。その双眸は僅かに揺らいでいて、逡巡している様子が鮮明に分かる。今抱きしめないと、何かが崩れてしまうような気がした。決して大きいとは言えない自分の身体にすっぽりとおさまる彼女はやはり女で、自分は男なのだろう。躊躇うことなく彼女の頬に触れたこの掌も、随分と成長したものだ。シャンプーの香りが残る彼女の髪を耳にかけて、言葉を遮断させるようにそっとそのくちびるをなぞった。


「何も、言わなくて良い」


 静寂が広がる中で重ねたくちびるは、ひどく冷たかった。その冷たさを溶かすように何度も繰り返した熱いくちづけは、やがてお互いの全身へ伝染するかのように浸透する。背景を何も見えない黒から何も隠せない純白へと移し、ベッドが二人ぶんの重みで沈む音を奏でた。時折漏れる吐息が、情欲を加速させる。
 彼女に触れた瞬間、論理的な思考が無になった。扇情的なまでに冷たい彼女の肌を温めたかったと言ったら卑怯だろうか。まるでベッドのシーツと馴染むように沈む彼女の全身は、熱を持ち赤へと染まっていく。彼女はひどくしあわせそうで、ひどく哀しそうな矛盾の表情を浮かべている。然し、見惚れる程に美しい。ひとつに繋がった瞬間、ようやく彼女の抱える想いを共有出来たような気がして、何故かは分からないが涙が出そうになった。


「大丈夫か?」
「…ん」
「すまない、少々無理をさせたかもしれないな」
「ううん。ただ、」
「ただ?」
「何でかは分からないけど、泣きそうになっちゃった」


 腕の中にいる彼女の声が、些か震えているような気がした。弱くて強い、幸せなのに哀しい。いくつかの矛盾を持ったその声を撫でるようにくちづけた。少し汗ばんでいる彼女の前髪を整えてあげると、微笑んでいるのに泣きそうな表情を見せられたので、思わず腕に力を込めてしまった。


「…眠そうだね」
「ん…ねえ、明日になったら雪、溶けてるかな?」
「今日は温度もこの時期にしては珍しく高かったから、きっと朝には溶けてなくなっているだろう」
「そっ、か」
「そろそろ寝ようか」
「うん、おやすみなさい」


 −けれど、目覚めた時に君はもういなかった。




△▼△



 目が覚めたのは珍しく九時を過ぎた頃だった。腕がやたらと軽く、思わず震えてしまいそうになるほど寒い。温もりは欠片も存在しておらず、彼女がいなくなって生まれた空間がひどく寂しい。霧散したかのように何も、無い。
 こうなる事は予想していた。あの秋の終わりの日。彼女が自分を、誰かを愛さないと決めたことに気づいてしまったから。解っていた、覚悟もしていた。なのに、何故こんなにも胸が慟哭するかのように軋んでいるのだろう。

「私が愛した人は、みんないなくなっちゃうから。だから私のことは忘れて、お願いだから幸せになって」

 夢だと思っていた。けど、それはきっと彼女がこの部屋を出る前に言葉にした最後のメッセージ。忘れられるわけがない、そんなこと君が一番解っているだろう?自分の幸せを願う別れのメッセージを、愛する人から聞いた事のある君が、一番解ってる筈じゃないか。思わず握りしめたシーツが、ぐしゃりと波を打った。


 チェックアウトをする時、宿の人から彼女は急用で先に帰ったと伝えられた。オレにはゆっくり寝ていてほしいと、起こさないよう頼んでくれていたらしい。宿を出ると、冬だと言うのに皮肉なくらい眩しい太陽が地面を照らしていて、昨夜言ったように雪は一切見当たらなかった。



△▼△



 それから暫くして彼女とは連絡が一切取れなくなり、久々に店を訪れてみた。店は閑散としており、少し前に閉店していた。彼女は母親と同じ人生を選んだのだろう。消えてしまった、何もかも。なのに、この想いだけはすぐに消えること無く残っている。

 どんなに足掻いても、オレが愛した人は、みんな消えてしまう。どうやら、最愛の人には愛されない運命らしい。愛する人がいなくなってしまうのは、オレも同じだ。それでも、。オレは君を幸せにすることは出来なかったかもしれないが、君はオレを幸せにしてくれた。君のおかげで、人を愛する幸せを知ることが出来たのだから。
 次に春がやって来るのはいつになるのだろうか。今はまだ、冬のままで良い。







 白銀のシーツをキャンパス代わりに全身で描いた愛は、隠れるように雪の中に埋もれてしまった。だから、雪を抱いて眠った。そしたら、朝には溶けて無くなっていた。忘れていたんだ、雪はあたたかくなると溶けて消えてしまうということを。
 −そう、彼女はまるで雪のようだった。




<END>

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