この痛いくらいの心を代弁するかのように泣き叫ぶことが出来たら、簡単に愛を語れるというのに。この嘆きを伝えることが出来たら、愛に満たされるというのに。空回り続けるこの残念な愛に、どうして心は痛んだままなのか。どんなに考えても、今の歪んだ心からでは答えなんて永遠に出てこないのだ。


 翌日、この日は週に数回あるバスケ部の朝練がない日だった。しかし、授業はもちろん通常通りあるため昨夜、氷室は と口づけを交わしたあと自宅へ帰途した。唇が離れた瞬間、は吐き気を催すほどの罪悪感に襲われたことを今朝も思い出す。そんなこと覚悟の上だったのに、いざ思い知ってしまうと痛みが異常なくらい響く。けれども、こんな想いを抱えたまま氷室と愛を育んでいくわけにはいかない。こんな戸惑いを抱えたまま、紫原と接することは出来ない。だから昨日のは所謂、悪夢と捉えることにした。そんなこと自分勝手だと、自身が一番良く分かっているのだが、そうすることでしか自分を守る方法が見つからなかった。

「敦くん…まだ来てないのか」

 いつものように教室へ登校し、いつものように友人たちに挨拶をする。どうやらひとつ後ろの席の紫原はまだ来ていないようだ。元々、朝練がない日は遅刻ギリギリにやってくるため、特に違和感はないはずだった。けれども、やはり昨日の出来事を完全に忘れることは不可能に近く、後ろの席を肌で感じるように意識してしまう。そして、しばらくすると後ろに気配を感じた。どうやらチャイムが鳴るギリギリに相変わらずのスローペースで紫原がやってきたようだ。はそのことを肌で感じ、ゆっくりと壊れかけの人形のように振り向く。

「…おはよう」
「おはよー」

 意外だった。あまりにもいつもと変わらない挨拶、態度、視線、声。彼も昨日のことは一時の気の迷い程度に考えているのだろうか、はそう思うことにした。そう思えば少しは気が楽になり、今後も紫原と何もなかったように今の関係が続けられると予想出来た。ふう、と安堵の息を吐くだが、紫原はもちろんそんなこと思っていない。
 授業が始まり、ノートを取るために髪が邪魔に感じたは自身の髪を片側に寄せる。少しだけ見える白いうなじに熱い視線を送られていることになんて、はもちろん気づかない。

「(あ、の首、白い)」

 いつからだろうか、この自分よりも遥かに小さい後ろ姿を見つめるようになっていたのは。紫原は自問自答したが、答えは出なかった。そう、無意識のうちにずっとの後ろ姿を見ていたのだ。その目に見つめられれば、何もかもを形無いものにされてしまいそうな程の熱い視線。紫原にとってのその後ろ姿は、たまらなく愛しくて仕方ないのだ。

「敦くん、ノートとった?」
「んー…とってない」
「もう!起きてると思ったら…ノートもとらずにいつも何してるの?」
「ボーっとしてる」
「しょうがないなぁ」

 そう言ってはいつものように紫原へノートを貸す。まさか、紫原がの後ろ姿を見ているのに夢中でノートを取らないことなど露知らず。流石の紫原も昨日の今日で馬鹿正直に「見てたから」なんて言うようなことはしないようだ。二人はこのまま、いつもと変わらない雰囲気で今日を過ごす。もちろん、放課後部活へ行くのもいつも通り二人でだ。周りから見てもいつもと変わらない。本人から見てもいつもと変わらない。それはもちろん練習中も同様だった。いつもと同じように部活が始まり、紫原は相変わらず怠そうに、は相変わらず忙しそうに動き回っていた。誰もがいつもの日常通りを送っているのだ。

 しかし、崩壊は突然やってくるものである。

 部活も終了時刻に迫ってきた時だった。はもう部活も終了しそうなこの時間に必要ないだろうと、着々と片付けを始め、練習中に使っていた救急箱をしまうため部室に戻った。その救急箱をロッカーの上に置こうとしているところ、偶然なのか計算なのかは分からないが紫原が部室へやってくる。爪先立ちで背伸びをすれば届く距離に手を伸ばし、救急箱を置こうとしているの後ろから、その救急箱を取り上げ、いとも容易くロッカーの上へ置く。

「え?…あ、敦くん」
「これ結構重いんだね」
「うん、色々入ってるから」
「何か危なっかしーね」
「うっ…ごめん。でも、ありがとね」

 はいつもと変わらない笑顔を紫原に向ける。その笑顔は紫原を酷く抉った。紫原自身、そのことに嫌と言うほど気付いてしまったのだ。気付いてしまったらもう仕方がない。このえぐられた心を彼女に理解させなければ。嫌と言うほど思い知らせて、泣きたいなら泣けば良い。自分に背を向けて今度はノートに何かを書き込んでる彼女に声をかける。


「んー?」
「キスして良い?」
「…え!?」
「だって昨日黙ってしたら怒ったじゃん」
「ちょ、敦くん。自分が何言ってるか分かってる?」
「うん」

 やはりには紫原が理解出来なかった。黙ってキスをしてきたから、という理由であんなにも戸惑いを受けたわけではないのに。その行為自体が疑問で仕方ないのに、どうしてまた同じ過ちを繰り返そうと言うのか。は走らせていたペンの手を止め、紫原を見つめた。紫原の目を見た瞬間、既に逃れられない何かに捕らえられてしまったとさえ錯覚する。それが錯覚で終われば良いのだが、錯覚ではなく脳と心で映し出される現実なのだ。

「そんなの、」
「室ちん、知ってんの?」
「え?」
「昨日のこと。昨日、オレとがキスしたこと」

 からすれば「オレとが」という台詞に非常に憤りと躊躇いを感じた。そこはせめて「オレがに」と言って欲しかったのだ。しかし、現実は何も変わらない。過程は違っても結果は同じなのだ。そのことを自身も痛いほど分かっているため、喉にいた言葉を刺が刺さる感覚に陥りながらも飲み込んだ。けれども次の瞬間、紫原から吐き出された言葉はを絶望へと落とし入れる。

「室ちんに言うよ?」
「な…!」
「だってオレ、隠し事とか好きじゃないしー」

 脅しとも言えるその残酷な言葉に、は血の気が一気に引いた。このまま紫原のよく分からない思いに応えるわけにはいかない。でも、氷室に話されてしまったら…少なくとも氷室が傷つくかもしれない。氷室が傷つくなんて自惚れかもしれない、とは思いながらも答えなんて出せるわけなかった。そもそも、何故友人関係である紫原がこんなことを言ってきたりするのかが分からなかった。の頭には、紫原が自分のことを好きなのかもしれない、という考えは一切ない。それは紫原のことをよく理解しているから。今まで紫原が本気になって恋愛をしているのを見たことがなかった。一緒に過ごしている年月は1年にも満たなく、人を判断するには短いものであるが、彼がなかなか恋愛に本気にならないというのはよく分かっていた。それは紫原に泣かされている女の子を何人も見てきたからだ。だからは、紫原が誰かを、ましてや自分を愛するなんてことはない、と信じているのだ。

「何でそんな顔してんの?」
「だって、そんなひどいこと」
「ひどい?ひどいのはの方だし」
「え、私!?」
「うん、いい加減気付けば?」
「私…何かした?」
「全然気づかないところもすげームカつく」
「ちょっ…」

 紫原はその大きな手での細い腕を掴み、ロッカーに押し付ける。の顔は見る見る歪んでいった。紫原を見るその目は不安、疑い、戸惑い、歎き、訴え、多くの事柄を含みすぎてオーバーヒートしているようだ。紫原はもう片方の手での頬に触れ、そっと撫でていく。は動かない。抵抗の動きさえ見せない。動きたくても動けない、まるで呪いにでもかかったように1mmも動かすことが出来なかったのだ。

「黙って」

 ―オレに愛されてよ、という紫原の言葉は自身が行ったへの口づけによって消し去られた。勢いよくの唇に紫原の唇が重ねられた瞬間、ロッカーが激しくガタっと揺れる。の脳内には、その音がやたらと激しく響き渡った。その次は連鎖するように、厭らしい音が脳だけではなく耳にも心にも響いてしまうのだ。侵食されていくその口内に、自身の心まで侵食されてたまるか、と言うように拒絶の言葉を述べようとしても、それは彼の罠でもある。述べようすればするほど、簡単に捕まり触れられ侵される。そんな悪夢のような時間から一瞬解放されると、今度は首筋に生暖かいものを感じた。紫原の顔が自分の首筋にあるのを確認すると、警報がより大きくなる。

「ちょ、敦くん…!」
「んー?」
「や、だっ…」

 もちろん、そんな音は紫原に届くわけがない。首筋を吸いついている彼の唇は言葉を発するより、へ愛の証を示すことに夢中なのだ。の頬に触れていた手は次第に下へと流れていく。その流れを止めるようには紫原の腕を掴むのだが、もちろんその勢いは止まらない。制服でマネージャー業を行っていたの太股は何からも守られてはなく、簡単に紫原の掌の餌食となる。首筋にあった紫原の唇はたまにの唇へと移動し、の言葉をかみ砕く。そしてもう片方の、彼女の腕を掴んでいた紫原の手は、の腰へと周り、その手がワイシャツの中の肌に直で触れたことをは感じ取ってしまったのだ。拒絶しようとしればするほど、2つの手は上へ上がって来る。まさか、まさかこのまま悪夢か醒めることがないのだろうか、とたまらなく不安になったが、ひとつの物音を機に全ての動きが止まる。

「つーかあいつは何処行ったんだよ」
「まぁアツシは福井先輩も知ってる通りマイペースですから」
「けど、よ…!?」
「福井先輩?どうかしまし…」

 心の叫びは誰にも聞こえないまま、世界の時間が一瞬止まったように感じた。




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