明けない夜はない、とよく聞く通りどんなことがあっても生きている限り次の日はやってくる。前日の闇を誘う出来事とは打って変わって、今日は心を焼き付けるくらいの陽が彼らを照らす。幸いなことに体育館の中のため、誰一人焼け焦がれることはないようだ。今日もいつも通りの練習光景。も氷室も紫原も、そして運悪く惨劇に遭遇してしまった福井も、一見普通である。そんな普通の空気の中、コートの外で休憩していた氷室に普通に話し掛けてきたのは紫原だった。
「ねぇ室ちん」
「ん?」
「オレが本気だと思ってないでしょ?」
「…」
普通に話し掛けてきた紫原に氷室も最初は普通に答えた。けれども、昨日のことが話題に出れば、もちろん空気は一気に変わる。殴ったまま今日を迎えてしまったが、もちろん氷室の口から謝罪の言葉なんて出て来る気配はない。紫原も、氷室から懺悔の言葉が出て来るなんて、思っていない。もちろん、自分が氷室に対して悪いことをしたとも思っていないのだ。ただ、次にどんな言葉を出せば正解なのか、氷室でさえも今は明確な答えが分からない。だから、沈黙を与えることで紫原の口から出て来る言葉を静かに待つ。
「オレ、自分はあんま物事とかに執着しないって思ってたけど違ったみたい」
「…」
「は、違う」
「そうか」
「うん。だから、もうああいうことしない」
「え?」
「次するときはが室ちんと別れて、オレだけの傍にいてくれるようになったらする」
お互い目を見て会話しているわけではない。それでも、紫原の気持ちが氷室も痛いほど分かった。分かってしまったのだ。自分も紫原と同じように、に傍にいてほしいと思うからか、その決意を無下に扱うことは出来なかった。もちろん否定をすることも出来ない。だから氷室はひとつ、笑みを零したのだ。
「…安心したよ」
「え?」
同じへの思いに、嫉妬や焦りなどという愚かな感情は生まれず、むしろ少しだけ生まれた一瞬の嬉しさに、自分は異常なんじゃないかと氷室は少し思う。笑みを零したのは、紫原も自分と同じ思いを持っていること、それからそんな思いに一瞬でも嬉しさを感じてしまった自分は馬鹿なんじゃないかと嘲笑ったからだ。そしてもうひとつ。紫原が本気だったということ。
「アツシが本気で」
その言葉は紫原を思考を止めた。普通の人間ならば絶対に醜い感情が生まれるこの最中で、彼は笑ったのだ。氷室がどういう思いで笑みを創り出したのかなんて、紫原にはもちろん考える必要もなければ、気にもならない。それでも、この笑みに一瞬思考が止まってしまったのは事実なのだ。
「冗談であんなことしてたら、それこそ殴り潰すところだよ」
「手?室ちんが言うと冗談に聞こえないんだけど」
「冗談じゃないよ、オレだって本気だ」
淡々と言葉を発してはいるが、その中にはもちろん静かな闘志がある。紫原もまた、氷室がに対して本気の想いを持っているということが、嫌というくらい分かってしまった。だから、紫原は氷室のほうへ向けようと思っていた視線を無理矢理止めた。今、氷室の目を見るのは危険だと、防衛本能が働いたのだ。別に氷室に対して脅えの感情を持ったわけでもないし、その空気に怯んだわけでもない。ただ、紫原にしては珍しく躊躇いが生まれたのだ。
「室ちんさー、昨日はあんなにキレてたのに怒ってないの?」
「まぁ、少なくともを脅えさせて傷つけたかもしれないことは腹立たしいよ」
「うわー…」
「でも、分からなくはないから」
「何が?」
「アツシの気持ち。オレも同じ立場だったらそれに近い行動はしてるかもしれないし」
紫原は納得してしまう自分を感じた。もしかしたら自分と似ているところが氷室にもあるのかもしれないと。だからこそ、たまらなく嫌なのだ。だからこそ、そんな氷室との愛を認めたくないのだ。への想いを噴火させなければ、そんなことにも気づかずにに済んだのに。気づいてしまった瞬間から、この二人の愛は吐き気がするほど嫌いなのだ。
「それって」
「欲しいものは無理矢理にでも手に入れたいってこと」
「…ふーん」
「だから、を傷つけないならアツシの好きなようにすれば良い」
「うん」
「けど、オレも本気だってこと忘れるなよ?」
自分が挑発を仕掛けたつもりだったのに、紫原は逆に自分が挑発されたような気分になった。しかし、それならそれで構わない。元々、奪うつもりで彼女へ近づき、氷室へ宣戦布告をしにきたのだから。氷室もまた、紫原がこのようなことを言ってくるのは予想範囲内だった。昨日の紫原の行動が突発的なものではあるけれども、今まで眠らせていた感情を単に爆発させただけ、今ならそう冷静に考えることが出来る。だからあえて自分も紫原に宣戦布告をすることで、その思いを受け止めたのだ。
△▼△
その後は特に何事もなく朝練が終了した。朝練の最中、が氷室や紫原と会話をすることはもちろんある。タオルやドリンクを渡す時だって、少しではあるが言葉は生まれる。そんな時でも3人は誰から見ても普通だった。あまりの普通さに、福井が違和感を感じるほどだ。そう、全員が自分の中にある醜い思いや強すぎる愛を隠して、会話をしているのだ。
着替えが終わり、紫原は教室へ向かおうとしていた。もちろん今までならと一緒にだ。けれども、少なからず関係が変化したと思った紫原はもうと自分が教室へ一緒に行くことはないと思った。次に一緒に教室へ行くときはが自分の隣にいてくれると決めた時だろうと。なので、教室へ向かおうとひとり部室を出る。しかし、部室を出て少し歩くとがひとりで立っている姿が目に入った。
「敦くん」
「…何してんの?室ちん待ってんの?」
「え?いつも通り敦くんを待ってたんだけど」
「そうなの?超ビックリだし」
「全然驚いてるように見えないんだけど」
紫原自身はすごく驚いているつもりだった。まさかが待っているとは思っていなかったからだ。昨日、最初の口づけの時とは違う、それよりも、もっとたくさんの重い愛をぶつけたのだから、今回こそ無視くらいされても当然だと思っていた。無視されても、この気づいてしまった遅生まれの愛を、言葉で囁こうと思っていたのだが、予想外のの態度に驚かされてしまったのだ。
「えー、これでもめっちゃ驚いてるしー」
「まぁいいや、教室行こう」
「…そーだね」
が前を歩き、半歩後ろから紫原がついていく。自分のペースで歩けば、すぐにを追い抜いてしまうが、そんなことはしなかった。が今、どんな表情でいるかに全く興味なんてなかったが、それでもの顔を見ながら普通に話すことに抵抗を覚えた。それは、昨日犯してしまった罪悪感が実は心の奥底に存在しているからか、それとも性懲りもなく我慢出来ない自分の欲望を抑える自信がないからか。それは紫原にも分からなかった。
「ちょっと寄り道していこ」
は紫原の答えも聞かずに、足を教室がある校舎から、先程朝練をしていた体育館とは別の第二体育館へ足を向けた。拒絶する理由も特にないので、紫原も何となくへ着いていく。第二体育館の裏まで来ると、が足を止めたので紫原も同じく足を止め、無気力に立ち尽くす。その瞬間、半歩前を歩いていたが急にくるりと紫原のほうへ方向転換し、その小さな体から目一杯の力を振り絞り紫原を壁へ押し付けた。
「え、何…」
紫原の腕を抑えて壁へ押し付けたと思えば、すぐにの温度が少し離れた。理由も何も分からないその行動に「何すんの?」と紫原が言葉を出す前に、が次の行動に出る。自分より高い位置にある紫原のネクタイを掴み、思いっきり自分の顔の近くまで引き寄せたのだ。一気に近くなった距離。少し動けば唇を合わせることも困難ではないこの距離に、紫原は逆に動くことが出来なくなった。
「謝って」
「…は?」
「昨日のこと、謝って」
の瞳は真っ直ぐに紫原を見ていた。この瞳が自分に酔いしれるような感情を孕んでいたら良いのに。なんて下らないことを紫原は一瞬思った。しかし、この瞳はまだ違うと気づく。少なくとも、今はまだ奪い去ることは出来ない。それほど彼女の声はこの至近距離にいても震えることなく、紫原の耳と脳に心地の良い刺激を与えた。自分よりはるかに小さいの迫力に、まるで心を掴まれたかのように感じた紫原は、自分の口が勝手に動くのを理解した。
「…ごめん、なさい」
まさか自分の唇が「ごめんなさい」という謝罪の言葉を形づくるだなんて、紫原自身は思っていなかった。何しろ悪いだなんて微塵も思っていないからだ。にも氷室にも謝るつもりなんてなかった。それがの強い意志を持った目と言葉だけで、操られてしまうなんて。自分で思っているよりも、に捕われてしまっているのかもしれない。紫原はまたひとつ、新しい自分の真実に気づく。そして紫原が謝罪の言葉を吐き出すと、は満足したのか、ネクタイを掴んでいたその手を離した。
「ん。じゃ、教室行こ」
「って…すごい女だねー」
紫原は嬉しくなった。自分が初めて心を奪われた人間がであることに。こんな自分にも真っ正面から向かって来てくれるに、今まで以上の愛しさを感じた。ああ、やっぱり好きなんだ。そう実感出来た。顔にも自然な笑みが零れる。今度は半歩後ろではなく、の隣に並んで歩くのだ。
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