一日のほとんどを、部活という囲まれた世界で過ごしているような気さえする。朝練から始まり授業を受けて、また部活で時間を過ごす。ほとんど毎日がその繰り返しなのだ。この繰り返しに嫌気がさすことは滅多にないが、それでも「今」を変えたいと思う時はある。
「当たれ当たれ!」
「足止まってるぞ!」
体育館に響く声が、練習の厳しさを物語る。部内で練習メニューのひとつとして試合を行うことはよくあり、今日はいつにも増して白熱している模様だ。キュキュと鳴る床から奏でられるその音は、何度も息を呑むほどのプレイを演出させ、コートの外にいる部員もその迫力に口を結んでいる。もそのひとりで、いつも以上に激しい展開に、記録を取りつつもその手はなかなか動かない。特にこのコートの中にいる氷室が1番集中してプレイをしていた。元々熱い部分を持っている彼ではあるが、ここ最近の中でも今日が特に激しいことは誰の目から見ても分かった。そんな氷室に触発されてか、コートに立っている部員も自然と集中し、レベルの高い試合を繰り広げているようだ。この氷室の真剣さに、ほとんどの部員は試合が近いから集中しているのだろうと思っているが、それだけではないだろう、とい思っている人間もいる。そんな白熱した雰囲気ではあるが、試合が一時中断される事態が起こった。
「ファウルだ!」
「おい、大丈夫か!?」
笛が為り、一時空気が変わる。あまりの激しい展開から、誰もが限界ギリギリのところでプレイをしていたため、ファウルが生じた。そこには氷室が床に座り込んでおり、相手チームのひとりが氷室のシュートをブロックしようとファウルをした様子が窺える。相手チームの人間は勢いがついていたからか、無我夢中で氷室に飛び込み、その衝動で2人とも床へ倒れ込んでしまったのだ。
「悪い、氷室」
「いえ、大丈夫で…っ」
「足やったか!?」
「…多分捻挫ですね」
「おい、テーピング!」
は救急箱を持って氷室の元へ駆け寄った。2人は少し離れたところへ移動し、は氷室をベンチへ座らせ、テーピングに取り掛かる。はひとりでマネージャー業を熟しているため、慣れた手つきで処置を進めていく。これだけ多くの部員がいるため、練習中は誰かしら、何かしらの怪我が絶えない。は今まで多くの部員の手当をしてきたが、氷室の手当をすることは今までなかった。たまに救急箱を使いに来ることはあっても、が手当をしなければいけないほど、大きな事態は生じなかったのだ。
「…大丈夫ですか?」
「うん、悪いね」
ここ最近何回も耳に残る謝罪の言葉。周りの声や音と離れたところにいるせいか、その謝罪の言葉は余計耳に響いた。は理由は分からないが、耳を塞ぎたくなるような衝動に駆られた。けれども今はテーピングをしているため、そんなことは出来ない。氷室はと目線を合わせずに下を向いているからか、のそんな心にも気付かない。
氷室の怪我は大したことなく、本人の言う通り軽い捻挫のようだった。けれども、澱んだ雰囲気が何となく漂っており、そんな重い空気を少しでも軽くしようと、は氷室にいつものように笑って話し掛けた。
「でも、珍しいですね。氷室先輩が怪我するなんて」
「そうかな?」
「はい。氷室先輩らしくないっていうか…」
「…オレらしいって?」
「え?」
ああ、この言葉は何となく聞いたことがある。はその直感を感じ取った。以前、紫原にも似たようなことを言われたことがある、と。あの時も、今も、別に深いことを意味して言っているつもりは一切ない。ただ何となく「らしくない」と言っているだけなのに、どうやら彼ら2人にこの言葉はお気に召さないようだ。少しでも空気を明るくしようと思ったの健気さは見事に玉砕し、愚かなことにより荒んだ雰囲気が漂う。その空気を氷室も感じ取ったのだろうが、もう既に遅い。
「ごめん、今の忘れて」
それはをより混乱させるものとなってしまった。別に怒られているわけではない。以前の紫原のように責められているわけでもない。それなのに、逆に心臓を痛めつけてくるのは何故か。は言葉を出したいのに、喉が握り潰されるような感覚に陥って何も紡ぐことが出来なかった。それはどういう意味ですか。どうしてそんなこと言うんですか?私に何を言わせたいんですか?そんな簡単な台詞さえも出てこないのだ。
「もう大丈夫。ありがとう」
そんな繕った言葉なんて要らないから、今何を考えて何を思っているのかを教えて欲しかった。氷室がベンチから立ち上がっても、は動くことが出来ず、ただそこらへんに散らばったテープの残骸を黙々と拾うことしか出来ない。そんな様子を静かに見つめている紫原も、何も言うことはないのだ。
△▼△
氷室の捻挫も大したことなく、試合をするまでとはいかないが、その後も練習に参加して今日を終えた。紫原がへの愛を押し付けてから初めて、氷室とは周りに誰もいない2人きりに出会う。今更一緒に帰るという、当たり前の小さな幸せな時間を終わらせることはどちらともしない。けれども、この時間は今までと違って幸せな時間にはなりえないのだ。それは、の服の下に隠された小さな赤が痛いくらい物語っている。
「今日はごめん」
「え、何がですか?」
「変なこと言って」
せっかくの謝罪もそんなに乱発されてしまったら重みがなくなることに気付かないのだろうか。せっかくの謝罪もそんなに押し付けられてしまったら、こちらが潰れてしまうということを分からないのだろうか。はそんな台詞を胸に戻し、「いえ」と小さく答えた。は確実に変化を察した。紫原によって描かれた今の物語に、自分の気持ちの変化に確実に気付いてしまったのだ。紫原に愛を押し付けられた時とはまた違う。それとは少し違う変化に。
「じゃあ、気をつけてね」
「はい」
「また明日」
氷室はを家の前まで送り届けると彼女の頭を優しく撫でてから、自身の家へと帰宅する。帰り道から生じていた、人ひとり分の距離。それは埋まらないまま、今日が終わってしまったのだ。
冷静を装うことでしか氷室自身も心の戸惑いを隠すことが出来なかった。朝練の時に紫原に告げたことは真実。しかし、それと同時にひとりの男として、少しの不安を初めて覚えてしまったのだ。頭では考えないようにしていても、やはり昨日の紫原との場面がフラッシュバックするように過ぎってくる。そんな蟠りをバスケにぶつけてしまったがための、情けない捻挫なのだ。自分にこんな情けない部分があるとは知らなかった氷室は、最終的にその醜い感情を一瞬でもへぶつけてしまったことにひどく後悔した。こちらもまた重い愛である。
一方、は家の中に入るとひとり気分が悪くなった。何かを吐きたいけれど、何も吐けない。まるで言いたいけれど、何も言えないという今の心理が体調にまで現れているようだった。
△▼△
珍しくため息をついているに、紫原は嫌でも気付いた。そういえば今日は朝練のときから少しボーとして、元気がなかったように思える。授業中も、何回のところでプリントが止まってしまったか。その度に背中をつついて合図をするのだが、一向に改善されなかった。そのまま結局放課後まで時間が過ぎてしまい、恐らくは今日の授業が終わったことに気づいていないだろう。窓からはすっかり夕陽が差し込み、部活が始まる時間だということを訴えているのに、それさえも気付かない。もしかしたら、いや確実に自分も原因のひとつであると分かっている紫原は、あえて何も言わないでいたが、あまりのの様子を見兼ねて心を覗くことにしてみた。
「?」
「…ん、何?」
「何か元気ないけど大丈夫ー?」
「え…あ、うん!ごめん、心配かけちゃった?」
「心配もそーだけど、もしかして悩んでる?」
「…」
「分かりやすいし」
紫原は鈍いように見えて、実は鋭いのではないかとは何回か思ったことがある。今もそうだ。紫原の言いたいことが息をすることのように自然分かり、紫原もまたの言いたいことが分かるのだろう。けれどもはその先を紡がない。紫原に言いたくないわけではなく、まだ自分で言葉にしたくないのだ。自分の唇からその空気を創るのは、まだ躊躇われた。
「部活行こう、敦くん」
「今のままじゃ辛いだけだよ」
の言葉など無視して、独自の世界へ引きずりこもうとする紫原の言葉にいくつもの疑問が浮かんだ。辛いだけ、辛いとは一体誰のことを指しているのだろうか。けれども、その言葉が間違いなく真意なことは容易に理解出来る。だから余計何も言えなくなってしまった。周りの雑音も全てシャットダウンされ、そこには紫原の言葉だけが存在しているかのように、宇宙をぐるぐると廻る。廻るだけで、どこにもたどり着かないその言葉の答えに、はひとつだけ哀しい笑みを浮かべる。
「ほら、部活遅れちゃうから行こう」
それでも自分の心をごまかすように、は会話を無理矢理中断させ席を立ち上がり部活へ行こうと歩き出す。しかし、まだ席を立とうとしない紫原は、反射的にの腕を掴みその足を止めさせた。腕を掴んだ瞬間、勢いが多少あったせいか、パシっという小さな音が空間に響く。腕を掴まれた温度と同時にやってきたその音に、はゆっくりと振り向き、座っている紫原に自身の視線を合わせた。
「」
初めて紫原の視線を下から感じる。いつもは上から捕らえられたかのように動けなくなってしまうほどの視線が今日は少し違う。それでもやはり彼女の心を掴むような熱い気持ちは変わらない。いつもと変わらない声なのに、にはいつもより静かに聴こえた気がした。それがより、周りの音を全てシャットダウンさせているように感じる。
「オレ、が好き」
この橙に染まる空間の中で、2人の音だけが、ゆっくり動いているかのような気さえした。
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