積み重ねられる言葉や愛の数々に心臓がわし掴みにされた。ついにその重さに耐えられなくなった時、心臓が悲鳴を上げて鳴く。けれども、それは痛みを訴える声でもなければ、助けを求める合図でもない。ようやく覚醒し、次に進むための一歩を踏み出すことを告げる、不器用なりの愛の叫びなのだ。


「え?」

 聞こえていたはずなのには聞き返した。それは、紫原から発されたその言葉の真意を確認するため。けれども、は後悔した。紫原の目を見てしまったせいで、彼から視線を逸らすことが出来なくなったからだ。腕を掴まれてはいるものの、精一杯の力を出せばでも振りほどくことは出来るはずだ。けれども紫原はそれをさせない。もそれをしない。それは紫原の話を聞くという、なりの信号でもあった。今まで行為でしか自分の溢れてしまった想いを伝えることが出来なかった紫原が、ようやく言葉を紡ぐまでに至ったのだから。

「オレ、が好きだよ」
「…」
「世界で一番、本気で好き」
「でも、」
「室ちんよりオレと一緒にいたほうが良いよ」
「…何でそう思うの?」

 いつもの暢気な間延びした言葉遣いではなく、まるでひとつひとつの言葉が生きているように生み出されるその言葉が、には印象的だった。ありったけの愛情の言葉を脳に響かせ、そのまま心臓ごと奪い取っていくのだろうか。そう感じさせる告白だが、それ対して大きな戸惑いはない。戸惑いはない、けれども確実に自分自身を揺さぶっていることには気づいていた。だから肯定でも否定の言葉でもない。純粋な疑問を紫原へ投げかけることで、自分のことにも関わらず内情を探ることにしたのだ。

「だって室ちんといる時の、無理してない?」

 返ってきたのは目を覚ませるような言葉。そしてそれが真意であるだけに、はより言葉を詰まらせる。そんなことない、というたった7文字の言葉が出てこないのだ。喉のあたりでストップがかかってしまっているのだ。出そうとした言葉が上手く出て来ず、空気だけが静かに鳴く。紫原はそんなの様子にもちろん気づいていた。気づいて、ただのその顔をただ黙って見つめている。

「室ちんといる時、無意識に遠慮とかしてるでしょ?」
「え?」
「言いたいことがあっても言えなかったりとか」
「…」
「そんなんで幸せだとか思ってるなんて、ただの錯覚だよ」

 が言葉を挟むのさえ許さないように紫原は続ける。珍しく饒舌な彼にも驚くが、何より真意を述べてくる紫原に、はただただ呆然としていた。紫原はぐいっとの腕を少し引き寄せ、互いの距離を近づけた。自分は座っているため、見上げることになるの顔が、目が、揺れているのがよく分かるような距離だ。その自分を見つめている目も、頬に落ちる長い睫の影も、紫原には魅力的で仕方がない。お願いだから早くオレのものになって、そんな想いをの腕に少しだけ込める。全てを込めてしまったら、の細い腕が折れてしまうだろうから少しだけ。でも、心は折れてしまえば良いと思う。そしたら支えてあげるから。そう願いながら、に言葉を伝え続ける。

「そんなこと、」
「あるよ。だって本当は気づいてたんでしょ」
「…っ」
「気づいたけど、気づかないフリしてたんでしょ」
「何で…何で敦くんは」
「だって、ずっと見てきたもん」
「そ、っか…」
「やめなよ、言いたいことも言い合えない関係なんて」

 今まで逃げてきたはついに捕らえられたかのような気持ちになった。ついに自覚させられてしまったのだ、自分と氷室との関係を。今までも薄々感じていた戸惑いは、紫原にハッキリと言葉にさせられたことで、ようやく理解せざるを得なかった。言いたいことも言えない関係、まさにそれだった。氷室に言いたいことがあっても言えない自分。どこかで鍵を閉めて檻から出ようとしない自分。一定の距離感を保とうとしていた自分。時にそれは大事なことかもしれないけれど、終始そんな状態で幸せになろうだなんて思い上がりも良いところだ。改めて考えると、まるで馬鹿馬鹿しいその恋愛に笑ってしまいそうになる。ただし、それは嘲笑う笑いではなく、呆れる笑いでもなく、悲しさや虚しさを通り越しての笑いである。

「このままじゃ幸せになんてなれないよ」

 まさにその通り。紫原のこの止めの一言はに衝撃を与えた。そして背中を押したのだ。その愛のある言葉に、は足の爪先から心臓まで一気に熱が上がってくるのを感じた。けれども、心臓の動きはそこまで激しくなく、むしろ落ち着いているくらいだ。それはひとつの覚悟を決めた女の心だからだろうか。だから真っ直ぐに紫原を見つめていた。

…」

 紫原が先程よりも距離を近づけるように腕を少し引っ張れば、余計に狭まる二人の空気。空いているもう片方の手を、の首の後ろへ滑りこませれば、あとは唇を合わせるだけ。あとはそれだけで愛を伝えるには充分なのだ。紫原はの首の後ろへ回した手に少し力をこめ、ゆっくりと自分へ近づける。そのスピードは今までとは比べものにならないくらい、緩やかで静かだった。これではまるで普通の恋人同士の時間みたいだ。何も知らない人間が教室へ来たら、恋人同士がただキスを交わしているようにしか見えないだろう。

「良い、よね?」

 お互いの息が感じ取れる程の距離まで近づいてきたところで、紫原は何故か確認の言葉を囁いた。以前、と氷室 が別れてが紫原と一緒にいるとなる時まで、このようなことをしないと氷室へ宣戦布告をした紫原。けど2人はまだ別れていないし、が紫原と一緒にいるとも宣言したわけではない。それでも、が良いと言えばそれで全て良いのではないだろうか、と思ってしまうのは紫原の完全なる自分への甘やかしだった。何故なら、大好きで愛しくてたまらない人が目の前にて、触れていて、悩んでいて、泣きそうな顔を見せられてしまっては、もうどうしようもないから。そんな状態で約束を守れるほど大人ではない。紳士なんかじゃない。優しくなんかない。そんなことで自分の心をコントロール出来るほど、紫原は器用ではないのだ。本気の恋愛だからこそ、不器用にならずにはいられない。

 しかし、触れ合う直前でお互いの動きが止まった。が紫原の肩に手をついて止めさせたのだ。紫原は無理矢理引き寄せることはなく、静かにの首と腕を解放した。同時にも紫原の肩に置いていた手を降ろして、一気に2人の距離が広がった。もちろん距離的にはすごい離れたわけではなく、先程話をしていた程度の距離なのだが、今まで近すぎていた分、一気に離れたような気がした。

「敦くん」

 けれども、2人の距離は再び近づく。今度はから距離を近づけ、また紫原の肩に両手を置いた。そして顔まで近づけてきたのだ。その動きは先程の紫原とは全く違う。速くて鮮やかな動き。紫原が躊躇うよりもの行動のほうが早かった。唇が触れ合う、と思うような距離であったがそれは叶わない。は紫原の耳元でそっと囁くだけだった。

「ありがとう」

 たった一言。そのたった一言に紫原は目を見開いた。一瞬、どういう意味なのかも全く理解出来なかった。否定でもない、けれども肯定でもない。なのに彼女の心は既に決まってるらしい。それはどっちの意味のありがとうなのか。紫原にはこの時ハッキリした答えは分からなかった。何故なら可能性は半分半分だから。もう、それはにしか分からない。

「先に行くね」

 後ろ姿のからは、もう先程までのは感じなかった。真っ直ぐに芯が通っているようで、その後ろ姿さえも美しい。が去って行った教室の中でさえ、まだ輝きを保っているようだった。そんな温かさが居心地良く感じているのか、それとも居心地悪く感じているのか。それは紫原自身にしか分からないが、彼はこの空間の中で笑いを言葉にせずにはいられなかった。

「…らしーね」

 もちろんそんな言葉はに届いているわけではないが、紫原にはを見届ける意志がある。自分は全てを伝えたのだからあとはだけ。あと少しのその時まで待っていようと決めたのだ。




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